真理はある?
<真理はある?>
古田博司『日本文明圏の覚醒』筑摩書房、2010年
西洋音楽史の岡田暁生によれば、今日クラシックとは、ヨーロッパが世界帝国を築いていた頃の音楽のことであり、「不滅の」とか「永遠の」などの決まり文句は、この時代に作られたクラシック・イデオロギーの残骸の一つだそうである。
クラシック音楽は第一次大戦が終わった一九二〇年代から、アメリカ系の娯楽音楽に徐々に主役を奪われ、第二次大峨後は世界音楽帝国の座をアメリカ系ポピュラー音楽に取って代わられてしまう。今日ヨーロッパの一民族音楽として愛おしんでいく以外に、ヨーロッパ・クラシックの存続は期せないとまで言う(「クラシックの黄昏?」『大航海』六〇号、二〇〇六年)。
次に言語学。一九五〇年代にノーム・チョムスキーか出て、人類に共通な普遍文法解明の狼煙を上げた。いわゆる変形生成文法である。現実に使われている各国各民族の特殊言語から普遍言語に至ろうとする研究は、彼の文法の熱烈な賛同者たちに支えられ、世界中の言語学者間で活発化していく。しかし、一九八〇年代には、いくらやっても普遍言語に至れないことが次第に人々を倦ませていった。
言語学は科学ではないので、この結果はついに論証されないままだが、今日では言語学全体かチョムスキー一色に塗りつぶされ、むしろ波瀾と活性の契機を失ったとまで酷評されるに至っている。チョムスキー本人は、二〇〇〇年以降、ほとんど社会批評家に転じた(前掲『対論言語学が輝いていた時代』)。
数理分野の普遍信仰は、ゲーデルが出て、一九三一年に不完全性定理を証明して以来、半世紀以上をかけて間断なく崩れていったと見ることかできるだろう。
物理学は非線形性の問題から、どんなに自然科学が進歩しても、人間には絶対予測できない世界があることを示した。
「社会科学」分野の普遍信仰は、実証研究が絶えずそれを掘り崩して進行したが、結果としてそのほとんどのグランド・セオリーをマルクスに頼っていたため、八〇年代の末の東欧社会主義体制の解体、九一年のソビエト連邦の崩壊により最終的に壊れた。
また、近代経済学などのリベラル・アーツは、非線形数学の金融工学に王座を奪われたまま、経済学の基礎学問として生き延びている。他のアーツ、総称して「人文科学」分野は、始めから科学でないことは自明であったが、日本では「社会科学」の普遍信仰に寄り添う形で、長らく科学を僭称していたに過ぎない。
筆者につまびらかに出来る部分は以上だが、その他の分野でも普遍信仰が確実に崩れていったものと推測している。結果から見れば、経験科学の進歩、実証研究の進展、現実世界の変遷に伴うパラダイム・シフトなどにより、自壊したのであろう。今日では、それぞれの分野のかつての普遍信仰の核となったモデルや理論と、その周辺に絡まる風景や道徳を含めてのそれを、「メタ物語」と呼ぶことが一般的である。
理論を信仰するなんて「メタ物語」、つまりメタフィジーク(形而上学)の世界で、そんなものに「真理」なんかないようです。というか、「ない」んですね。
そういえば、アインシュタインの光の速度を絶対とする「相対性理論」も、下記の実験が正しければ「崩れる」そうですね。
日経『ニュートリノまた超高速』H23.11.19
素粒子ニュートリノが光速より速く飛行するという実験結果を9月に発表していた名古屋大などの国際共同研究グループは18日…再実験でほぼ同様の結果が得られたと発表した。
経済学だって同じです。万能理論なんてありませんし(昔はあったと考えて追求していた・・メタ物語)、「この場合はこうだ」「この場合はこうすることが適切(確率が高い)」だレベルの話です。
小国ギリシャで発生した財政危機が、なぜユーロの崩壊につながりかねないのでしょう。なぜ世界経済がここまで追い詰められるのでしょうか。仮にそれを「説明」することはできても、1年前にこうなると「予測」するのは今のマクロ経済学モデルでは不可能だったでしょう。
かつてフリードリヒ・ハイエクは経済学に量的予測は不可能で、パターン予想、つまり特定の出来事の説明ができるだけだと述べました。ハイエクとケインズというと正反対の経済思想家とされますが、両者は互いに尊敬し数式による明示的な経済モデルを提示しなかった点でも共通します。おそらくケインズもハイエクと同様、量的予測への懐疑を抱いていたのではないでしょうか。ハイパーインフレも深刻なデフレもあった両大戦間の経済を実見すれば、単純な仮定に基づく数理経済モデルなど子供の遊びに等しく思われたのではないでしょうか。
…米マサチューセッツ工科大学 MIT 教授のチャールズ・キンドルバーガー(1910~2003)の研究も今こそ役に立ちます。
MIT 教授としてはるか後輩のリカルド・カバレロです。最近の論文「危機後のマクロ経済学-今こそ知ったかぶり(Pretense of knowledge)を改めよ」で量的予測を可能にするため非現実的な仮定を便宜上用いたことを忘れ、自らの「標準的理論」モデルが現実に適合すると誇大宣伝したマクロ経済学の「中核」の傾向を批判しました。
今こそ経済学は知ったかぶりをやめ、自己の予測能力の限界を認め、特定の出来事を説明する、周辺の研究に集中すべきだと主張します。今後経済学がそう発展するなら、キンドルバーガーは先駆者として再評価されるのではないでしょうか。
<1つの経済学で全てを語るのは無理>
清水書院 新政治・経済 p93 平成21年 三版

上記のおなじみの「供給・需要」曲線さえ、「仮定」だらけです。箱庭のような条件が必要です。
(1)財・サービスの内容について完全に知っている、無数の消費者
(2)財・サービスの内容について完全に知っている、無数の生産者
(3)完全競争市場であること(寡占・独占やカルテルを結ばない)
(4)消費者は、効用を最大限にするように行動する
(5)生産者は利益を最大限にするように行動する
(1)(2)は、「完全な知識を持っていること」、(4)(5)は「常に合理的であること」を示します。この様な状態で、上記の「市場」は最適な資源配分をすると仮定されます。
こんな、一番スタンダード:中学校の教科書でさえ、扱っている理論でさえ、「仮定」だらけです。
しかも、「現実にあり得るの?」というような仮定ばかりです。
実際には、「似たような世界」はありますが、「現実」的にはありません。ですが、70億人の行動をすべて要素として取り入れるのは不可能(これはどんなにスーパーコンピュータが出来ても、無理)なので、モデルとして単純化して分析します。
http://abc60w.blog16.fc2.com/blog-entry-518.html
経済学とは(2) 経済理論は完璧か?参照
・・・経済の勘所として、常に(最低)2つの視点が必要ということを述べました。
日常と、非常時(ハレとケ)は論理が違います。経済学における長期と短期では、現れる事象が違います(価格変化or数量変化)。どれも、現実に起きていることです。
現実を否定し、理論だけに走ると、「盲目」になります。昔のマルクス経済学者のように「現実が間違っている(理論どおりではない)」と言うのは、「べき論・価値論」の世界ではOKですが、経済学ではBADです。
それでも、効果の違いについて、差異はありますが、「合意」できる部分もあるようです。
齊藤誠他 『マクロ経済学』有斐閣 2010 p646
何らかの市場メカニズムの限界で、実際のGDPが潜在GDPを一時的に下回る不況に陥ることがある。その場合、財政政策や金融政策などのマクロ経済政策によって総需要を刺激し、実際のGDPを潜在GDPにまで引き上げることは、理論的にも、実際的にも十分に正当化できる。
…市場経済を前提にマクロ経済を考えている研究者のなかで、上述…に対して真正面から異論を唱えるものは少数派であろう。

DSGEモデル
ミクロ経済理論をベースに個々の経済主体の行動変化を描写しながら、それがマクロの世界(消費・雇用・投資など)にどう影響するかを考察するもので、各国中央銀行で用いられています。
旧来のモデルでは、政策の変更に対して家計や企業はその行動を「変化させない」と仮定を置いていました。
「確率的に・・・」追うしかなさそうです。
なお、今回のブログ記事には、後日追記しなければならないことがあります。
古田博司『日本文明圏の覚醒』筑摩書房、2010年
西洋音楽史の岡田暁生によれば、今日クラシックとは、ヨーロッパが世界帝国を築いていた頃の音楽のことであり、「不滅の」とか「永遠の」などの決まり文句は、この時代に作られたクラシック・イデオロギーの残骸の一つだそうである。
クラシック音楽は第一次大戦が終わった一九二〇年代から、アメリカ系の娯楽音楽に徐々に主役を奪われ、第二次大峨後は世界音楽帝国の座をアメリカ系ポピュラー音楽に取って代わられてしまう。今日ヨーロッパの一民族音楽として愛おしんでいく以外に、ヨーロッパ・クラシックの存続は期せないとまで言う(「クラシックの黄昏?」『大航海』六〇号、二〇〇六年)。
次に言語学。一九五〇年代にノーム・チョムスキーか出て、人類に共通な普遍文法解明の狼煙を上げた。いわゆる変形生成文法である。現実に使われている各国各民族の特殊言語から普遍言語に至ろうとする研究は、彼の文法の熱烈な賛同者たちに支えられ、世界中の言語学者間で活発化していく。しかし、一九八〇年代には、いくらやっても普遍言語に至れないことが次第に人々を倦ませていった。
言語学は科学ではないので、この結果はついに論証されないままだが、今日では言語学全体かチョムスキー一色に塗りつぶされ、むしろ波瀾と活性の契機を失ったとまで酷評されるに至っている。チョムスキー本人は、二〇〇〇年以降、ほとんど社会批評家に転じた(前掲『対論言語学が輝いていた時代』)。
数理分野の普遍信仰は、ゲーデルが出て、一九三一年に不完全性定理を証明して以来、半世紀以上をかけて間断なく崩れていったと見ることかできるだろう。
物理学は非線形性の問題から、どんなに自然科学が進歩しても、人間には絶対予測できない世界があることを示した。
「社会科学」分野の普遍信仰は、実証研究が絶えずそれを掘り崩して進行したが、結果としてそのほとんどのグランド・セオリーをマルクスに頼っていたため、八〇年代の末の東欧社会主義体制の解体、九一年のソビエト連邦の崩壊により最終的に壊れた。
また、近代経済学などのリベラル・アーツは、非線形数学の金融工学に王座を奪われたまま、経済学の基礎学問として生き延びている。他のアーツ、総称して「人文科学」分野は、始めから科学でないことは自明であったが、日本では「社会科学」の普遍信仰に寄り添う形で、長らく科学を僭称していたに過ぎない。
筆者につまびらかに出来る部分は以上だが、その他の分野でも普遍信仰が確実に崩れていったものと推測している。結果から見れば、経験科学の進歩、実証研究の進展、現実世界の変遷に伴うパラダイム・シフトなどにより、自壊したのであろう。今日では、それぞれの分野のかつての普遍信仰の核となったモデルや理論と、その周辺に絡まる風景や道徳を含めてのそれを、「メタ物語」と呼ぶことが一般的である。
理論を信仰するなんて「メタ物語」、つまりメタフィジーク(形而上学)の世界で、そんなものに「真理」なんかないようです。というか、「ない」んですね。
そういえば、アインシュタインの光の速度を絶対とする「相対性理論」も、下記の実験が正しければ「崩れる」そうですね。
日経『ニュートリノまた超高速』H23.11.19
素粒子ニュートリノが光速より速く飛行するという実験結果を9月に発表していた名古屋大などの国際共同研究グループは18日…再実験でほぼ同様の結果が得られたと発表した。
経済学だって同じです。万能理論なんてありませんし(昔はあったと考えて追求していた・・メタ物語)、「この場合はこうだ」「この場合はこうすることが適切(確率が高い)」だレベルの話です。
小国ギリシャで発生した財政危機が、なぜユーロの崩壊につながりかねないのでしょう。なぜ世界経済がここまで追い詰められるのでしょうか。仮にそれを「説明」することはできても、1年前にこうなると「予測」するのは今のマクロ経済学モデルでは不可能だったでしょう。
かつてフリードリヒ・ハイエクは経済学に量的予測は不可能で、パターン予想、つまり特定の出来事の説明ができるだけだと述べました。ハイエクとケインズというと正反対の経済思想家とされますが、両者は互いに尊敬し数式による明示的な経済モデルを提示しなかった点でも共通します。おそらくケインズもハイエクと同様、量的予測への懐疑を抱いていたのではないでしょうか。ハイパーインフレも深刻なデフレもあった両大戦間の経済を実見すれば、単純な仮定に基づく数理経済モデルなど子供の遊びに等しく思われたのではないでしょうか。
…米マサチューセッツ工科大学 MIT 教授のチャールズ・キンドルバーガー(1910~2003)の研究も今こそ役に立ちます。
MIT 教授としてはるか後輩のリカルド・カバレロです。最近の論文「危機後のマクロ経済学-今こそ知ったかぶり(Pretense of knowledge)を改めよ」で量的予測を可能にするため非現実的な仮定を便宜上用いたことを忘れ、自らの「標準的理論」モデルが現実に適合すると誇大宣伝したマクロ経済学の「中核」の傾向を批判しました。
今こそ経済学は知ったかぶりをやめ、自己の予測能力の限界を認め、特定の出来事を説明する、周辺の研究に集中すべきだと主張します。今後経済学がそう発展するなら、キンドルバーガーは先駆者として再評価されるのではないでしょうか。
<1つの経済学で全てを語るのは無理>
清水書院 新政治・経済 p93 平成21年 三版

上記のおなじみの「供給・需要」曲線さえ、「仮定」だらけです。箱庭のような条件が必要です。
(1)財・サービスの内容について完全に知っている、無数の消費者
(2)財・サービスの内容について完全に知っている、無数の生産者
(3)完全競争市場であること(寡占・独占やカルテルを結ばない)
(4)消費者は、効用を最大限にするように行動する
(5)生産者は利益を最大限にするように行動する
(1)(2)は、「完全な知識を持っていること」、(4)(5)は「常に合理的であること」を示します。この様な状態で、上記の「市場」は最適な資源配分をすると仮定されます。
こんな、一番スタンダード:中学校の教科書でさえ、扱っている理論でさえ、「仮定」だらけです。
しかも、「現実にあり得るの?」というような仮定ばかりです。
実際には、「似たような世界」はありますが、「現実」的にはありません。ですが、70億人の行動をすべて要素として取り入れるのは不可能(これはどんなにスーパーコンピュータが出来ても、無理)なので、モデルとして単純化して分析します。
http://abc60w.blog16.fc2.com/blog-entry-518.html
経済学とは(2) 経済理論は完璧か?参照
・・・経済の勘所として、常に(最低)2つの視点が必要ということを述べました。
日常と、非常時(ハレとケ)は論理が違います。経済学における長期と短期では、現れる事象が違います(価格変化or数量変化)。どれも、現実に起きていることです。
現実を否定し、理論だけに走ると、「盲目」になります。昔のマルクス経済学者のように「現実が間違っている(理論どおりではない)」と言うのは、「べき論・価値論」の世界ではOKですが、経済学ではBADです。
それでも、効果の違いについて、差異はありますが、「合意」できる部分もあるようです。
齊藤誠他 『マクロ経済学』有斐閣 2010 p646
何らかの市場メカニズムの限界で、実際のGDPが潜在GDPを一時的に下回る不況に陥ることがある。その場合、財政政策や金融政策などのマクロ経済政策によって総需要を刺激し、実際のGDPを潜在GDPにまで引き上げることは、理論的にも、実際的にも十分に正当化できる。
…市場経済を前提にマクロ経済を考えている研究者のなかで、上述…に対して真正面から異論を唱えるものは少数派であろう。

DSGEモデル
ミクロ経済理論をベースに個々の経済主体の行動変化を描写しながら、それがマクロの世界(消費・雇用・投資など)にどう影響するかを考察するもので、各国中央銀行で用いられています。
旧来のモデルでは、政策の変更に対して家計や企業はその行動を「変化させない」と仮定を置いていました。
「確率的に・・・」追うしかなさそうです。
なお、今回のブログ記事には、後日追記しなければならないことがあります。
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