小さな政府論の蹉跌(さてつ) その1
<小さな政府論の蹉跌(さてつ) その1>
http://blog.livedoor.jp/clj2010/archives/65611515.html
「小さな政府」を語ろう
世界の流れを見つめ、日本の将来を語り合い、世の中の画一的で単純な見方に対して論点を提示しみんなで考えいくブログです。 アメブロを中心に活動している「小さな政府を支持する」5人が中心になって立ち上げた共同ブログです。 みなさんからのコメントを賛成・反対を問わずにお待ちしております。
http://ameblo.jp/rakuichiza/theme-10030314622.html
「地方政府は小さければ小さいほど良い」
結論から言います。上記のような「小さな政府論」は、完全に破たんしています。
そもそも、「小さな政府か、大きな政府か」は神話で、どっちでもかまいません。小さな政府の国が大きな政府の国よりも、経済成長しているわけではありませんし、逆もまたありません。
http://abc60w.blog16.fc2.com/blog-entry-579.html
参照 カテゴリ:ハジュン・チャン『世界経済を破綻させる23の嘘 その3』
この小さな政府論がなぜ胡散(うさん)臭いのかについて、3回にわたって、検証します。
<なぜ政府が必要なのか>
参考文献:八田達夫 『ミクロ経済学Ⅰ Ⅱ』東洋経済新報社 2008
1 市場は有効
共産主義がうまくいかなかったように、自明とされています。
2 再分配
市場では、競争があり、競争に負けたものは退出する。その際のセイフティー・ネットが必要になります。失業手当などの普及、民事再生法などです。これがあることによって、「再チャレンジ」することが可能になり、市場効率を最大限に発揮できることになります。
3 市場の失敗
ですが、市場には、任せておくだけでは市場が成立しないこともあるのです。
(1)規模の経済
電気の送電線は、大規模な投資が必要です。しかも、送電量が少なくても(北海道の山奥)建設費用がかかります。一度送電線が引かれると、もう一社が別な送電線を引いても、採算が取れません。独占になります。
独占企業は、価格を高く吊り上げることが可能です。生産量を絞ることが可能です。この状態では、社会にとって最適な量と質を確保することができません。ですので、規制が必要(独占禁止法・許認可価格)なのです。
(2)外部経済・不経済
ある生産活動が、市場を通さずにほかの個人や企業に影響を与える場合です。公害は代表例です。ばい煙や有毒ガスは、周囲に影響を及ぼします。ですが、市場に任せておけば、企業は垂れ流します(価格転嫁しない)。こんなものは、「価格取引」の対象にならないからです。ですので、公害の規制が必要です。
(3)公共財の提供
灯台や橋は、市場に任せても建設されません。ハンバーガーは「私的財」です。誰かが食べれば、誰かが食べれません。
橋や灯台は「公共財」です。誰かがが使っても、ほかの人のサービス量が減るわけではありません。だから、橋や灯台を「無料」で提供する民間企業は出てきません。政府が灯台を作る理由はそこにあるのです。
誰もが他人に迷惑をかけずに、そのサービスを利用できるモノで、国防、消防、道路などです。
(4)情報の非対称性
売り手はその財の情報を良く知っているのに、買い手はよくわからない場合です。その場合、悪貨は良貨を駆逐することになります。医薬品など、品質について、公的機関が検査する必要があります。消費者に情報を提供する場合です。
だから、これらの市場の失敗を是正するために、政府が必要なのです。ただし、政府が賢いわけではありません。政府も失敗します。政府は「整理」することが仕事です。
というのが、政府が必要な理由なのですが・・・・
でも、これらの説明は、「経済学」の観点から、分析したものです。『そりゃそうかも知れんが、そんなことしなくても経済は成長できるだろう』という反例を1つでも出したら、説得力がなくなります。また、小さな政府で成功例があれば、説得力を失います。(だから、「小さな政府論」なるものが、一定の勢力を保つのです)
私だって、八田先生の本に、「そうじゃなくても出来るだろう」という反論点はあります。
そもそも、灯台って必要なのでしょうか?それを使う人(国際航路を使う人々)が、カネを出し合い、設置してもいいのではないでしょうか?
この例では、花火大会の例もあります。フリーライダー(ただ乗り論)です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%80%E3%83%BC
ウィキペディア「フリーライダー」より
一般に、物財やサービスは、対価を支払った者に限り便益を受けることができる。これを財の排除性という。しかし、他の経済主体に有利に働く正の外部性を有する財のなかには、公共財や情報財(例:ウィキペディア)のような排除性を有しない財がある。
たとえば純粋公共財である消火活動や治安・国防などは、対象になる利用者を限定することが難しい(非排除性)。誰かが費用を負担してサービスを供給すれば、負担していない人も便益を受けられる。結果として、供給のための費用を負担する誘引は働かず、みながただ乗りをしようとするようになる。
そのため、市場経済に任せた場合、これらの正の外部性を伴うサービスの供給が著しく過少になるという問題が生じる。しかしながら、必要不可欠なサービスである。そこで租税により、便益に関わらず広く負担を募り、公共サービスを提供し社会的需要を満たす。これらのサービスを提供するのは、租税によって活動する公共性の高い主体(政府や地方自治体)である。
花火大会の例でいけば、みんなから参加費を集めて花火大会をやっても、ただで見る人が出てくるから、「市場」にまかせても、「花火をやる業者は少なくなる」というものです。
ですが、一方で、有料の花火大会だってきちんと存在します。やれないわけではないのです。
http://makomanai-hanabi.com/
「真駒内花火大会」
消防、警察(要するに安全)も、民営でできるのか?できている街があります。アメリカのゲートで囲まれた街、ゲーティッド・シティなどです。
http://www.machinami.or.jp/contents/publication/pdf/machinami/machinami063_9.
『ゲーティッドコミュニティとスラム』
http://realtorusa.blog43.fc2.com/blog-entry-25.html
アメリカの不動産業
どうですか?カネさえ出せば(市場原理)、安全だって買えるのです。
ですが、これらの「経済学」という土俵に立った反論は、「小さな政府」論者の土俵上での反論にすぎません。

私の上記反論も、「経済学の土俵」からなされています。これだと、最後は堂々巡りになります。「どっちも成立するから」です。
でも、「小さな政府論」の欠点も、この一見説得力のある点(土俵)にあります。
実は、「小さな政府」論のおかしな点は、この「経済学の土俵」の視点でのみからしか、考えていないことにあるのです。
つまり、彼らの主張の根拠になっている、 「経済学の土俵」は、人間生活の一面であり、他の面からの考察、決定的な視点が欠けているのです。
その決定的視点とは何か。それは、「人類の歴史」、「憲法」「法律」に示された世界すなわち、「人権」なのです。

この、「人権」という土俵の視点は「小さな政府論」者にはありませんし、もし人権という土俵に立てば、「小さな政府論」では太刀打ちできません。この決定的視点が欠けているので、「小さな政府」論はどうしても胡散(うさん)臭くなるのです。
続く
http://blog.livedoor.jp/clj2010/archives/65611515.html
「小さな政府」を語ろう
世界の流れを見つめ、日本の将来を語り合い、世の中の画一的で単純な見方に対して論点を提示しみんなで考えいくブログです。 アメブロを中心に活動している「小さな政府を支持する」5人が中心になって立ち上げた共同ブログです。 みなさんからのコメントを賛成・反対を問わずにお待ちしております。
http://ameblo.jp/rakuichiza/theme-10030314622.html
「地方政府は小さければ小さいほど良い」
結論から言います。上記のような「小さな政府論」は、完全に破たんしています。
そもそも、「小さな政府か、大きな政府か」は神話で、どっちでもかまいません。小さな政府の国が大きな政府の国よりも、経済成長しているわけではありませんし、逆もまたありません。
http://abc60w.blog16.fc2.com/blog-entry-579.html
参照 カテゴリ:ハジュン・チャン『世界経済を破綻させる23の嘘 その3』
この小さな政府論がなぜ胡散(うさん)臭いのかについて、3回にわたって、検証します。
<なぜ政府が必要なのか>
参考文献:八田達夫 『ミクロ経済学Ⅰ Ⅱ』東洋経済新報社 2008
1 市場は有効
共産主義がうまくいかなかったように、自明とされています。
2 再分配
市場では、競争があり、競争に負けたものは退出する。その際のセイフティー・ネットが必要になります。失業手当などの普及、民事再生法などです。これがあることによって、「再チャレンジ」することが可能になり、市場効率を最大限に発揮できることになります。
3 市場の失敗
ですが、市場には、任せておくだけでは市場が成立しないこともあるのです。
(1)規模の経済
電気の送電線は、大規模な投資が必要です。しかも、送電量が少なくても(北海道の山奥)建設費用がかかります。一度送電線が引かれると、もう一社が別な送電線を引いても、採算が取れません。独占になります。
独占企業は、価格を高く吊り上げることが可能です。生産量を絞ることが可能です。この状態では、社会にとって最適な量と質を確保することができません。ですので、規制が必要(独占禁止法・許認可価格)なのです。
(2)外部経済・不経済
ある生産活動が、市場を通さずにほかの個人や企業に影響を与える場合です。公害は代表例です。ばい煙や有毒ガスは、周囲に影響を及ぼします。ですが、市場に任せておけば、企業は垂れ流します(価格転嫁しない)。こんなものは、「価格取引」の対象にならないからです。ですので、公害の規制が必要です。
(3)公共財の提供
灯台や橋は、市場に任せても建設されません。ハンバーガーは「私的財」です。誰かが食べれば、誰かが食べれません。
橋や灯台は「公共財」です。誰かがが使っても、ほかの人のサービス量が減るわけではありません。だから、橋や灯台を「無料」で提供する民間企業は出てきません。政府が灯台を作る理由はそこにあるのです。
誰もが他人に迷惑をかけずに、そのサービスを利用できるモノで、国防、消防、道路などです。
(4)情報の非対称性
売り手はその財の情報を良く知っているのに、買い手はよくわからない場合です。その場合、悪貨は良貨を駆逐することになります。医薬品など、品質について、公的機関が検査する必要があります。消費者に情報を提供する場合です。
だから、これらの市場の失敗を是正するために、政府が必要なのです。ただし、政府が賢いわけではありません。政府も失敗します。政府は「整理」することが仕事です。
というのが、政府が必要な理由なのですが・・・・
でも、これらの説明は、「経済学」の観点から、分析したものです。『そりゃそうかも知れんが、そんなことしなくても経済は成長できるだろう』という反例を1つでも出したら、説得力がなくなります。また、小さな政府で成功例があれば、説得力を失います。(だから、「小さな政府論」なるものが、一定の勢力を保つのです)
私だって、八田先生の本に、「そうじゃなくても出来るだろう」という反論点はあります。
そもそも、灯台って必要なのでしょうか?それを使う人(国際航路を使う人々)が、カネを出し合い、設置してもいいのではないでしょうか?
この例では、花火大会の例もあります。フリーライダー(ただ乗り論)です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%80%E3%83%BC
ウィキペディア「フリーライダー」より
一般に、物財やサービスは、対価を支払った者に限り便益を受けることができる。これを財の排除性という。しかし、他の経済主体に有利に働く正の外部性を有する財のなかには、公共財や情報財(例:ウィキペディア)のような排除性を有しない財がある。
たとえば純粋公共財である消火活動や治安・国防などは、対象になる利用者を限定することが難しい(非排除性)。誰かが費用を負担してサービスを供給すれば、負担していない人も便益を受けられる。結果として、供給のための費用を負担する誘引は働かず、みながただ乗りをしようとするようになる。
そのため、市場経済に任せた場合、これらの正の外部性を伴うサービスの供給が著しく過少になるという問題が生じる。しかしながら、必要不可欠なサービスである。そこで租税により、便益に関わらず広く負担を募り、公共サービスを提供し社会的需要を満たす。これらのサービスを提供するのは、租税によって活動する公共性の高い主体(政府や地方自治体)である。
花火大会の例でいけば、みんなから参加費を集めて花火大会をやっても、ただで見る人が出てくるから、「市場」にまかせても、「花火をやる業者は少なくなる」というものです。
ですが、一方で、有料の花火大会だってきちんと存在します。やれないわけではないのです。
http://makomanai-hanabi.com/
「真駒内花火大会」
消防、警察(要するに安全)も、民営でできるのか?できている街があります。アメリカのゲートで囲まれた街、ゲーティッド・シティなどです。
http://www.machinami.or.jp/contents/publication/pdf/machinami/machinami063_9.
『ゲーティッドコミュニティとスラム』
http://realtorusa.blog43.fc2.com/blog-entry-25.html
アメリカの不動産業
どうですか?カネさえ出せば(市場原理)、安全だって買えるのです。
ですが、これらの「経済学」という土俵に立った反論は、「小さな政府」論者の土俵上での反論にすぎません。

私の上記反論も、「経済学の土俵」からなされています。これだと、最後は堂々巡りになります。「どっちも成立するから」です。
でも、「小さな政府論」の欠点も、この一見説得力のある点(土俵)にあります。
実は、「小さな政府」論のおかしな点は、この「経済学の土俵」の視点でのみからしか、考えていないことにあるのです。
つまり、彼らの主張の根拠になっている、 「経済学の土俵」は、人間生活の一面であり、他の面からの考察、決定的な視点が欠けているのです。
その決定的視点とは何か。それは、「人類の歴史」、「憲法」「法律」に示された世界すなわち、「人権」なのです。

この、「人権」という土俵の視点は「小さな政府論」者にはありませんし、もし人権という土俵に立てば、「小さな政府論」では太刀打ちできません。この決定的視点が欠けているので、「小さな政府」論はどうしても胡散(うさん)臭くなるのです。
続く
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theme : マクロ経済学 ミクロ経済学
genre : 政治・経済