中村うさぎ 「『女』を着替える」 週刊文春12月24日号
あけましておめでとうございます
<年始特別版 哲学・倫理>
「政経」「現社」なので、政治や、哲学の思想家も扱います。今後、ホッブズ・ロック・ルソーや、和辻哲郎なども取り上げてゆきます。
今回は、全く関係はないのですが、「よく考えれば、人間の本質を突いているなあ」と思わされたコラムを取り上げます。以下、今回のブログ記事は、とりとめのない話です。
中村うさぎ「『女』を着替える」週刊文春12月24日号
前回、「女はコスプレする性である」という非常に乱暴で大雑把な決め付けをした女王様であるが、もう少し詳しく説明するならば、それはこういう事である。 「男と違って女は、自らの性的アイデンティティを自在に着脱する生き物である」
たとえば我々は、「女を捨てる」とか「女を使う」などという表現をよく使う。まぁ、説明するまでもなかろうが、「女を捨てる」というのは、お酒落したり愛嬌を振りまいたり性的魅力を漂わせたり、という、いわゆる世間的に「女らしい」と考えられている属性を意識的に排除し、あえて男っぽく振る舞うような事を指す。これはもちろん、主に仕事の現場で「女を使ってる」などと思われないよう、「女」という性的アイデンティティや属性を封印しているわけである。
一方、「女を使う」というのは、その逆で、仕事や恋愛の場において自分に有利に物事を運ぶために、あえて性的魅力を使ってみたり、泣いたり甘えたりという、いわゆる「女の武器」を使用する事を指す。
つまり、我々はシチュエーションや対人関係に応じて、まるで衣装や着ぐるみのように「女」という性的アイデンティティを脱ぎ捨てたり、あるいは着込んだりしているのである。
これに対して、男が仕事や恋愛の場で「男を捨てる」とか「男を使う」などと言っているのは聞いた事がないし、そもそもそういう言葉が存在しないようである。言葉が存在しないという事は、その「概念」自体が存在しないという事だ。つまり、「男」という性的アイデンティティは、シチュエーションに応じて脱ぎ捨てたり、はたまた意識的に着込んだりするものではないらしいのだ。男というのは、いつでもどこでも常時「男」であり続け、その事に疑いすら持たない性なのだろう。
だから仕事の現場にも平気で「性」を持ち込み、それを「セクハラ」と言われて戸感ったりするわけだ。女の多くは仕事の現場において意識的に「性的アイデンティティ」を封印しているため、男がいきなりそこに「性」を持ち込んで自分を「女扱い」したりすると、なんだか反則技を使われたような気がしてムカッとくるのである。
と、まぁ、このように、男と女の「性的アイデンティティ」の在り方は根本的に違う。「男」という性が本人にとって常に不動のものであるのに対して、 「女」という性は着脱自在な、ある意味、非常に「コスプレ」的なものなのだ。
この違いが、男性本位の社会構造のせいなのか、あるいは男女の生来的な差異なのか、女王様にはわからない。そこらへんは、社会学者なり脳学者なりが専門的に解明してくがさるのを待つばかりである…
「勉強をする」ということは、今まで何気なく見ていたモノが、まるで違って見えるということです。目の悪い人にとって、「ぼやー」と見えていたモノが、「はっきりくっきり見えるようになる」=「世の中が違って見える」ということです。だから新しく知ることの誘惑に勝てません。
ただ、これらは、同じモノを見ているのに、「人は自分の見たいようにしかに見ない(カエサル)」いわゆる、「バカの壁」のもとでもありますね。
例えば、街のいつもの風景。そこに自動車がたくさん走っています。軽自動車のナンバープレートが黄色だということに、一般の人のどれだけが気づいているでしょう。あるいは、今日歩いた、街路樹の名前や、葉っぱの形はどんなのでした?。たぶん、見ているようで、見ていないはずです。今度、観察してみてください。「すべての人に現実が見えるわけではない(カエサル)」。閑話休題
さて、この「女を捨てる」「女を使う」ですが、確かにそうですね。「男を捨てる」とか、「男を使う」という表現もありませんね。
男は、24時間男ですが、女は、例えば「化粧」によって、演じるペルソナ(パーソナリティー)を変えます。仕事時と、オフ時。しかも、化粧にも、「昼用メイク」と「夜用メイク」で、ペルソナを変えます。まさにペルソナ「人格」を、場所や、状況によって変えますね。
女の人は、職場の格好を「スーツ」やスカートにすることによっても、人格を変化させます。「スーツ」は、「女を捨て」る時に使用します。逆にスカートの種類を変えて、「女を使う」場合もあります。
男のスーツも同様です。「性を消そう」とするときに使います。=「性を消す」=「中性的な役割」を持っていますね。ただ、外見は「性を排除」していますが、中身は同じなのが「男」です。女は、「スーツ」によって、中身「意識」も変えています。そこがわからないまま、女性に接するので、男は「セクハラだ」と非難されます。
子どもは、24時間子どもなので、やはり、「子どもを捨てる」とか、「子どもを使う」という表現もありません。
ほかにも、次のような表現があります。(○があって、×がない)
(1)
○「母親捨てる」×「父親捨てる」
○「母親失格」×「父親失格」
例えば、母親が、子どもがいるのに、浮気に走ったとします。そうしたら、「母親失格」だとか、「母親捨てて、何やっているのよ」と非難されたりします。でも、男親の場合、「父親失格」とか、「父親捨てて女に走る」とは、言われませんね。
(2)
「男」=性的 「男性」は「性」という字がついているのに、「性」を感じない
「女」=性的 「女性」は「性」という字がついているのに、「性」を感じない
「あの人はすばらしい男性(女性)だ」と、「あいつはすげえ男だ」「あいつはすげえ女だよ」。どちらが、性的でしょうか。仕事面で「男だねえ!」と形容されたら、雄々しい男の「性」を連想します。でも「男性だよねえ」という表現は使いません。
「あの人はすばらしい女性だ」といっても、「性」を想像しません。見事な仕事ぶりに「女だねえ!」はどうですか?
映画やTVで、主役の俳優さんは、「男」「女」を演じます。「男性」「女性」ではないですね。歌手も「女」を演じます。ただ、仕事をしているときは、「演じている」モードなので、それを知らずに男性が、「性」を持ち込めば、あからさまに拒否反応を示されます。
(3)
料理人=男
ミシュランの三つ星シェフといって、想像するのは、「男」です。すし職人も、そば打ち職人も「男」です。ホテルの総料理長は「男」です。料理の鉄人も「男」です。「女」ではありません。
どんなに女性が、料理が上手でも(平野レミさんとか、北海道では道産子ワイドの星沢さん)、料理教室などを開いても、そこで出てくる料理は、「家庭で食べる料理」です。
飲食店で、「お袋の味」を謳ったお店では、「家庭料理」を想像します。高級レストランの味ではありません。(親父の味もありません)
男がやると特別で、女は料理を毎日「日常」生活で作っています。にもかかわらず、お金を出して食べるお店では、料理人は「男」と、勝手に想像してしまいます。「女性」が高位シェフだと、ある意味驚きです。ギャップを感じるからです。でも、その場合でも、あくまでも「女性」シェフであって、「女」シェフではありませんね。
不思議です。この不思議さ(なぜか)を、すぱっと割り切って説明できれば「学問(科学)」になります。中村さんのエッセイは「学問」だと思いました。
<年始特別版 哲学・倫理>
「政経」「現社」なので、政治や、哲学の思想家も扱います。今後、ホッブズ・ロック・ルソーや、和辻哲郎なども取り上げてゆきます。
今回は、全く関係はないのですが、「よく考えれば、人間の本質を突いているなあ」と思わされたコラムを取り上げます。以下、今回のブログ記事は、とりとめのない話です。
中村うさぎ「『女』を着替える」週刊文春12月24日号
前回、「女はコスプレする性である」という非常に乱暴で大雑把な決め付けをした女王様であるが、もう少し詳しく説明するならば、それはこういう事である。 「男と違って女は、自らの性的アイデンティティを自在に着脱する生き物である」
たとえば我々は、「女を捨てる」とか「女を使う」などという表現をよく使う。まぁ、説明するまでもなかろうが、「女を捨てる」というのは、お酒落したり愛嬌を振りまいたり性的魅力を漂わせたり、という、いわゆる世間的に「女らしい」と考えられている属性を意識的に排除し、あえて男っぽく振る舞うような事を指す。これはもちろん、主に仕事の現場で「女を使ってる」などと思われないよう、「女」という性的アイデンティティや属性を封印しているわけである。
一方、「女を使う」というのは、その逆で、仕事や恋愛の場において自分に有利に物事を運ぶために、あえて性的魅力を使ってみたり、泣いたり甘えたりという、いわゆる「女の武器」を使用する事を指す。
つまり、我々はシチュエーションや対人関係に応じて、まるで衣装や着ぐるみのように「女」という性的アイデンティティを脱ぎ捨てたり、あるいは着込んだりしているのである。
これに対して、男が仕事や恋愛の場で「男を捨てる」とか「男を使う」などと言っているのは聞いた事がないし、そもそもそういう言葉が存在しないようである。言葉が存在しないという事は、その「概念」自体が存在しないという事だ。つまり、「男」という性的アイデンティティは、シチュエーションに応じて脱ぎ捨てたり、はたまた意識的に着込んだりするものではないらしいのだ。男というのは、いつでもどこでも常時「男」であり続け、その事に疑いすら持たない性なのだろう。
だから仕事の現場にも平気で「性」を持ち込み、それを「セクハラ」と言われて戸感ったりするわけだ。女の多くは仕事の現場において意識的に「性的アイデンティティ」を封印しているため、男がいきなりそこに「性」を持ち込んで自分を「女扱い」したりすると、なんだか反則技を使われたような気がしてムカッとくるのである。
と、まぁ、このように、男と女の「性的アイデンティティ」の在り方は根本的に違う。「男」という性が本人にとって常に不動のものであるのに対して、 「女」という性は着脱自在な、ある意味、非常に「コスプレ」的なものなのだ。
この違いが、男性本位の社会構造のせいなのか、あるいは男女の生来的な差異なのか、女王様にはわからない。そこらへんは、社会学者なり脳学者なりが専門的に解明してくがさるのを待つばかりである…
「勉強をする」ということは、今まで何気なく見ていたモノが、まるで違って見えるということです。目の悪い人にとって、「ぼやー」と見えていたモノが、「はっきりくっきり見えるようになる」=「世の中が違って見える」ということです。だから新しく知ることの誘惑に勝てません。
ただ、これらは、同じモノを見ているのに、「人は自分の見たいようにしかに見ない(カエサル)」いわゆる、「バカの壁」のもとでもありますね。
例えば、街のいつもの風景。そこに自動車がたくさん走っています。軽自動車のナンバープレートが黄色だということに、一般の人のどれだけが気づいているでしょう。あるいは、今日歩いた、街路樹の名前や、葉っぱの形はどんなのでした?。たぶん、見ているようで、見ていないはずです。今度、観察してみてください。「すべての人に現実が見えるわけではない(カエサル)」。閑話休題
さて、この「女を捨てる」「女を使う」ですが、確かにそうですね。「男を捨てる」とか、「男を使う」という表現もありませんね。
男は、24時間男ですが、女は、例えば「化粧」によって、演じるペルソナ(パーソナリティー)を変えます。仕事時と、オフ時。しかも、化粧にも、「昼用メイク」と「夜用メイク」で、ペルソナを変えます。まさにペルソナ「人格」を、場所や、状況によって変えますね。
女の人は、職場の格好を「スーツ」やスカートにすることによっても、人格を変化させます。「スーツ」は、「女を捨て」る時に使用します。逆にスカートの種類を変えて、「女を使う」場合もあります。
男のスーツも同様です。「性を消そう」とするときに使います。=「性を消す」=「中性的な役割」を持っていますね。ただ、外見は「性を排除」していますが、中身は同じなのが「男」です。女は、「スーツ」によって、中身「意識」も変えています。そこがわからないまま、女性に接するので、男は「セクハラだ」と非難されます。
子どもは、24時間子どもなので、やはり、「子どもを捨てる」とか、「子どもを使う」という表現もありません。
ほかにも、次のような表現があります。(○があって、×がない)
(1)
○「母親捨てる」×「父親捨てる」
○「母親失格」×「父親失格」
例えば、母親が、子どもがいるのに、浮気に走ったとします。そうしたら、「母親失格」だとか、「母親捨てて、何やっているのよ」と非難されたりします。でも、男親の場合、「父親失格」とか、「父親捨てて女に走る」とは、言われませんね。
(2)
「男」=性的 「男性」は「性」という字がついているのに、「性」を感じない
「女」=性的 「女性」は「性」という字がついているのに、「性」を感じない
「あの人はすばらしい男性(女性)だ」と、「あいつはすげえ男だ」「あいつはすげえ女だよ」。どちらが、性的でしょうか。仕事面で「男だねえ!」と形容されたら、雄々しい男の「性」を連想します。でも「男性だよねえ」という表現は使いません。
「あの人はすばらしい女性だ」といっても、「性」を想像しません。見事な仕事ぶりに「女だねえ!」はどうですか?
映画やTVで、主役の俳優さんは、「男」「女」を演じます。「男性」「女性」ではないですね。歌手も「女」を演じます。ただ、仕事をしているときは、「演じている」モードなので、それを知らずに男性が、「性」を持ち込めば、あからさまに拒否反応を示されます。
(3)
料理人=男
ミシュランの三つ星シェフといって、想像するのは、「男」です。すし職人も、そば打ち職人も「男」です。ホテルの総料理長は「男」です。料理の鉄人も「男」です。「女」ではありません。
どんなに女性が、料理が上手でも(平野レミさんとか、北海道では道産子ワイドの星沢さん)、料理教室などを開いても、そこで出てくる料理は、「家庭で食べる料理」です。
飲食店で、「お袋の味」を謳ったお店では、「家庭料理」を想像します。高級レストランの味ではありません。(親父の味もありません)
男がやると特別で、女は料理を毎日「日常」生活で作っています。にもかかわらず、お金を出して食べるお店では、料理人は「男」と、勝手に想像してしまいます。「女性」が高位シェフだと、ある意味驚きです。ギャップを感じるからです。でも、その場合でも、あくまでも「女性」シェフであって、「女」シェフではありませんね。
不思議です。この不思議さ(なぜか)を、すぱっと割り切って説明できれば「学問(科学)」になります。中村さんのエッセイは「学問」だと思いました。
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