<文化と伝統など、後で作った話に過ぎない2 相撲など、国技でも何でもない、後付・あと解釈のオンパレード>
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<相撲など、国技でも何でもない、後付・あと解釈のオンパレード>

さて、相撲です。相撲が国技、相撲道・・・伝統・・・全部「後付」です。やっている本にはおろか、親方でさえ、由来がなんだかわからず「やわやわふわふわ」。まるで吉田類の「ほろ酔いトーク」のようなものです。
すもう本来のだいご味は、「相手に合わせるタイミング」「待った」でした。それが、「指導される」ことになっています。内容そのものが、次代とともに、変遷しているのです。
要するに、この世のことは「どうでもいい(どっちでもいい)」ことだらけ・・・というのが本質です。世の中、古今東西、何でもありです。みんなバラバラです。どれが唯一の形というものなど、まったくありません。 この世は「フィクション」で出来ています。
以下、高橋秀実『おすもうさん』草思社 2010より
1)土俵の真ん中に一本の木片。神棚に飾るような、白い稲妻型の紙がぶら下がっている。親方も「御幣(ごへい)」という名前のものだとは分かるが、何のために飾っているか、わからない。日本相撲協会監修の「相撲大辞典」にも、意味は載っていない。要するに「わからない」
2)すもうには、意味がよくわからない事だらけ。まわしは洗わない。どうしてかは、お相撲さんもわからない。
3)神棚が置かれたところが正面。正面の右が東、左が西。玄関があるのが正面。なぜかは分からず、建てた結果、土俵の東西南北が決まった。国技館も、正面は実際の方角は西。道路事情などによる。
4)東方の守護神清龍、南朱雀、西白虎、北玄武となっているが、建築上の事情で、おかまいなしになっている。
5)相撲のもとは、出雲の神々の国獲り。どの神も意思がはっきりせず、最後は「力比べ」で決着したという、情けない物語(古事記)。
6)日本書紀の相撲記述では、木工名人が、「絶対に失敗はない」といったのを、失敗を誘発させるために、天皇が女性たちを裸にして相撲を取らせたというのがもともと。もちろん、それに目を奪われ、名人は失敗した。
7)相撲の世界には「書」、つまり、書かれたものが一切ない。口頭伝承のみ。四股は右から、行事も軍配は右。すべて「・・・とされている」という世界
8)相撲は、立ち合いから何から、「相手に合わせる」ことが基本。
9)江戸時代初期には、行事の合図で相撲が始まった。享保年間に、「八角楯右衛門」が「待った」を考案、以後、「待った」が当たり前になり、行事は、相撲取りの名前を呼ぶだけの存在になった。
明治45年の取り組みでは天皇観戦の手前、待ったが54回、相撲時間が1時間を超える取り組みさえあった。大切なのは、勝負より「勝負前」「待った」こそが相撲の真骨頂になった。
10) 昭和3年ラジオ放送開始で、仕切り制限時間導入に。幕内10分、幕下5分に。相撲は、本当は、土俵のぶつかり合いではなく、じっと勝負を「待つ」ものだったのに・・・。
11)土俵に水を撒くのは、清めるのではなく、砂が乾いてしまうため。
12)放送事情、建築事情、社会事情を呑み込み、独特の意味づけをあとからするのが、現実と伝統の調和。
13)自ら国技と言ったことはない。周りが言うからそうなった。『相撲道綜』によれば、「相撲は国技だが、国技である証拠はない」
14)明治42年、当初板垣退助が「尚武館」と主張したが、完成案内状に「国技」とかかれていたので、「国技館」と命名された。案内状から名前をとった。相撲常設館ができた。その案内状に「国技」とあったから、国技館にした。そう名付けたから、相撲は国技になった。
同館には、欧米人がたくさん来訪し、「わが国固有の相撲」を見せるために、建設された。それまでは外で行われていた。はだかで往来の禁止条例ができたが、見られてもはずかしくない、欧米人に誇れる相撲と板垣が考え、屋根つきの常設相撲場を建設した。
いかにも昔風のモノと、外国人観戦というハイカラの調和。行事の「烏帽子+直垂」と言う昔風衣装に変わったのもこの時。以後「国技」が独り歩き。
15)昔から、星の貸し借り(貸借と売買)はあたりまえ。八百長は、相撲が語源。しかし「国技」とされてから、呑気許すまじという、周りの価値観が変化。お相撲さんは「怠け者」だったのに、「国技らしからぬ」と新聞が避難し、「武人らしからぬ」とまで言われるように。「武士道にもとる」とまで、非難されることに。
もともと「国技」も「武士道」もお相撲さんが名乗ったわけではない。それらは、お相撲さんを非難する言葉として始まった。たまたま『力士』と呼ばれていたので、「武士」と同じだと勘違いされ、「武士道」を歩まされることになった。
「国技なのにだらしない」とか、「相撲道にもとる」とか今日も非難するが、「国技とは何か」「相撲道とは何か」はよくわからない。板垣退助も、「国技館と名付けたのは自分の不行き届き」と述べ、後悔していた。
16)山鹿素行(『武士道』を書いた人)によると、相撲はけがはするし、手足が太く見苦しくなるので、専門家相撲取り(遊芸)の見世物にしましたという程度のもの。
17)戦時体制下、相撲は「国固有の技」として奉られ、日本精神を具現化したものとして、全国津々浦々、軍に至るまで、普及。昭和18年の「相撲界」という冊子には、『撃ちてしやまん』精神とか、「全身これ闘魂」とか、本当はお相撲さんは「ゆるゆる精神」だったのに、勝手にキャプションが。
国家総動員計画は、国家お相撲さん計画と同義に。なぜか、「神々の国獲りで「力比べ」からはじまったことになり(伝説だから検証のしようがない)、神と結びつく・・・全国各地の神社に「土俵づくり」・・・昭和17年には、相撲は単なる遊技から、「必修科目」へ。相撲の価値や本質はよくわからないが、「国技だからいいものに決まっている」と・・・。
しかし、子どもはもともと自然に「自ずからなる」相撲を取っていた。すでに普及しているのに、「国技だから」と普及に取り組むと、文科省の取り組む姿勢だけが空回りになった。
18)力士は、戦中であろうがなんでろうが、「呑気」。労働慰問の後に相撲を取るが、『手を抜けなくなって困った』。興行相撲を反省し、決戦相撲体制を訴える力士も登場。タニマチや観衆から食べさせてもらうのではなく「国家から食べさせてもらうのだから」と。ごっつあん精神の対象がかわっただけ・・・。
19)国会議員は相撲をたるんでいると非難しはじめ、あんこ体型がいかん。国民はやせているのに・・待ったもいかん。待ったをすると戦争に負ける・・・武士の取るべき態度ではない!。
相撲協会は反論。「待ったは自分のことだけではなく、相手のことも考える、相撲道である!」いつの間にか、相撲道を反論の材料に・・・。陸軍はこれを聞き、「戦争は、すなわち待ったの事」と戦争に取り入れ・・・「大東亜相撲圏」建設へ・・・。
20)工場動員でへとへとの力士、戦地に出向き、人数が半減した力士は、「相撲どころではありません」というが、否定しながらも土俵に上がる力士を、記者は「必死必中の体当たり精神」と書くから、相撲協会も体当たりの元祖として再講釈するように・・・。相撲中継ラジオ放送は大東亜共栄圏向け放送で、「ルーズベルトよチャーチルよ、この歓声を聞け!戦う日本の強さだ!」と。
21)敗戦後の11月にも、秋場所開催。作った伝統ではなく、相撲は「続けるもの」。客席にはアメリカ人がいっぱい。相撲協会は、「相撲は本来争ったり、傷つけあうことではなく、最初から人を喜ばせるための「スポーツだ!」と」。
相撲とは本来、「きわめて平和的なめでたく楽しい行事」「戦争とは関係ない、競技だと」狭義のために土俵を15尺から16しゃくに拡張。土俵など、もともと広さは適当なものだったから。ただし、広くなった土俵で力士がくたびれたため、すぐに元のサイズに。
十二代の神々の名前を祝詞を読み上げたのだが、三神に短縮。GHQにそれぞれの由来を聞かれたら、わからないから答えられないので、三神に短くした。
相撲の本質は「のんき」
22)いつの間にか、「力士」に品格が求められるようになった。横綱審議委員会(昭和25年~ 協会の諮問に対する答申と進言のみで、決定権も責任ももともとない)が求めだした。
この時3人の横綱がいたが、皆、千秋楽までに休場してしまい、協会は世間から非難を浴びた。そこで、「横綱は大関格下げにする」という新ルールを策定したが、場所後に「3人のだれを格下げするか、本当に格下げしてよいものか」紛糾し、「横綱には伝統と権威がある」と格下げ自体を撤回してしまった。
格下げの代わりに「諮問機関」をつくったのが「横審」。自分たちで決めると角が立つので、第三者に決めてもらい、非難をかわすための苦肉策。横審が「品格・力量」という内規を定めた。力量だけに限定すると、横綱がいなくなってしまう(3人の例)ので、「品格」という救済策をつくった。それがいつの間にかひとり歩きしてしまった。
枕詞のように、「武士道」とか、「品格」と言われるのは、後付も後付・・・。
相撲は本来「のほほん」。
23)行事は、公正・中立のようだが、全員「各部屋付きの親方」。最高位の行司差し違えは、進退伺いになる(腹切り用の刀まで差している)。しかし、「きわどい勝負で難しかった」と理事長になだめられ、今までに辞めた人はいない。あくまでも[儀式]。年功序列のお相撲さんのような感じ。
24)行事の仕切り(今は軍配を返す形)も、ラジオ放送が始まってから。それまでは、仕切りに30分も1時間もかかっていたが、ラジオ放送は午後6時で終わり。それに間に合わせるために、今の形に。紫、朱、紅、青などの装束も、カラーテレビ放送に合わせて染めることに・・・。すべて「便宜上」。式守と、木村に、流派の違いなど、ない。軍配の握り方が違うが、それもガチガチではない。
25)土俵祭の祝詞(行事が暗唱)も、「口伝」。本来は、神主が行うことを、「先輩から伝承」
26)『相撲史伝』によると、「式礼を整える」とは、「複雑にすること」。複雑にすると、自ずと「厳粛」を示すことになるから。「土俵は、『高尚なる理』に基づいて作られたものとは信じてはならない」と諭している。
27)呼び出しの秀男さんいわく、呼び出しの生活は、「暇があり過ぎ」。「合理的じゃないことだらけ」しかし、合理性を追求すると、「呼出もいらない」ということに・・・。相撲に合理性を追求したら何もなくなってしまう。だから、無から有をつくる。土俵があるから、仕事ができる・・・。
結論
国技だと思えば国技になり、スポーツだと思えばスポーツになり、「なんだか知らないけど続いている」から「伝統」になる。もはや、「人間の意思を超越」しているから、「伝統」。
「まつりごと=祭りごと=政」。みな、それにぶら下がって、生きている。
「歴史と伝統」など、こんなものです。○○道、○○精神も、同様です。
追記
1)お相撲さんは、「なんとなくここ(相撲部屋)にいた」という人ばかり。理由は様々ですが、「なんとなく」が一番多い。
2)黒海という力士が、とんとんと昇って行ったのは、「普通」のこと。本人いわく、「厳しくない」。稽古の後、特別な練習などしない。親方曰く「ふつう」「やる人は言われなくてもやるし、やらない人は言われてもやらない」
3)外国人力士は「モノが違う」。相撲の方云々ではなく、スピードとパワーは、日本人の比ではない。外国人力士に勝つことは、「ふつうは無理」。
4)「横綱目指して」と人は言うが、それは野球界でいえば、「イチローになれ」と言うのと同じ。横綱朝青龍や、白鵬は「強すぎる」。「十両が目標」というと、残念そうな顔をされるが、本当は「三段目」が目標。ゴムぞうりから雪駄に変わるから。
3)相撲は当たると痛い。首も頭も・・。だから、当たるのは怖い。
4)激しいとされる稽古は「午前中」で終わり。同時に取るのは2人だけ。あとは、みなハアハア言って、土俵を囲んでいる。稽古に参加しているだけで、息苦しくなるほど。「流れ(あ・うんの呼吸)」でやる、申し合い稽古(相撲を取る)とぶつかりげいこの2種類のみ。
午後は、昼寝だが、基本的に何をしても自由。
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<相撲など、国技でも何でもない、後付・あと解釈のオンパレード>

さて、相撲です。相撲が国技、相撲道・・・伝統・・・全部「後付」です。やっている本にはおろか、親方でさえ、由来がなんだかわからず「やわやわふわふわ」。まるで吉田類の「ほろ酔いトーク」のようなものです。
すもう本来のだいご味は、「相手に合わせるタイミング」「待った」でした。それが、「指導される」ことになっています。内容そのものが、次代とともに、変遷しているのです。
要するに、この世のことは「どうでもいい(どっちでもいい)」ことだらけ・・・というのが本質です。世の中、古今東西、何でもありです。みんなバラバラです。どれが唯一の形というものなど、まったくありません。 この世は「フィクション」で出来ています。
以下、高橋秀実『おすもうさん』草思社 2010より
1)土俵の真ん中に一本の木片。神棚に飾るような、白い稲妻型の紙がぶら下がっている。親方も「御幣(ごへい)」という名前のものだとは分かるが、何のために飾っているか、わからない。日本相撲協会監修の「相撲大辞典」にも、意味は載っていない。要するに「わからない」
2)すもうには、意味がよくわからない事だらけ。まわしは洗わない。どうしてかは、お相撲さんもわからない。
3)神棚が置かれたところが正面。正面の右が東、左が西。玄関があるのが正面。なぜかは分からず、建てた結果、土俵の東西南北が決まった。国技館も、正面は実際の方角は西。道路事情などによる。
4)東方の守護神清龍、南朱雀、西白虎、北玄武となっているが、建築上の事情で、おかまいなしになっている。
5)相撲のもとは、出雲の神々の国獲り。どの神も意思がはっきりせず、最後は「力比べ」で決着したという、情けない物語(古事記)。
6)日本書紀の相撲記述では、木工名人が、「絶対に失敗はない」といったのを、失敗を誘発させるために、天皇が女性たちを裸にして相撲を取らせたというのがもともと。もちろん、それに目を奪われ、名人は失敗した。
7)相撲の世界には「書」、つまり、書かれたものが一切ない。口頭伝承のみ。四股は右から、行事も軍配は右。すべて「・・・とされている」という世界
8)相撲は、立ち合いから何から、「相手に合わせる」ことが基本。
9)江戸時代初期には、行事の合図で相撲が始まった。享保年間に、「八角楯右衛門」が「待った」を考案、以後、「待った」が当たり前になり、行事は、相撲取りの名前を呼ぶだけの存在になった。
明治45年の取り組みでは天皇観戦の手前、待ったが54回、相撲時間が1時間を超える取り組みさえあった。大切なのは、勝負より「勝負前」「待った」こそが相撲の真骨頂になった。
10) 昭和3年ラジオ放送開始で、仕切り制限時間導入に。幕内10分、幕下5分に。相撲は、本当は、土俵のぶつかり合いではなく、じっと勝負を「待つ」ものだったのに・・・。
11)土俵に水を撒くのは、清めるのではなく、砂が乾いてしまうため。
12)放送事情、建築事情、社会事情を呑み込み、独特の意味づけをあとからするのが、現実と伝統の調和。
13)自ら国技と言ったことはない。周りが言うからそうなった。『相撲道綜』によれば、「相撲は国技だが、国技である証拠はない」
14)明治42年、当初板垣退助が「尚武館」と主張したが、完成案内状に「国技」とかかれていたので、「国技館」と命名された。案内状から名前をとった。相撲常設館ができた。その案内状に「国技」とあったから、国技館にした。そう名付けたから、相撲は国技になった。
同館には、欧米人がたくさん来訪し、「わが国固有の相撲」を見せるために、建設された。それまでは外で行われていた。はだかで往来の禁止条例ができたが、見られてもはずかしくない、欧米人に誇れる相撲と板垣が考え、屋根つきの常設相撲場を建設した。
いかにも昔風のモノと、外国人観戦というハイカラの調和。行事の「烏帽子+直垂」と言う昔風衣装に変わったのもこの時。以後「国技」が独り歩き。
15)昔から、星の貸し借り(貸借と売買)はあたりまえ。八百長は、相撲が語源。しかし「国技」とされてから、呑気許すまじという、周りの価値観が変化。お相撲さんは「怠け者」だったのに、「国技らしからぬ」と新聞が避難し、「武人らしからぬ」とまで言われるように。「武士道にもとる」とまで、非難されることに。
もともと「国技」も「武士道」もお相撲さんが名乗ったわけではない。それらは、お相撲さんを非難する言葉として始まった。たまたま『力士』と呼ばれていたので、「武士」と同じだと勘違いされ、「武士道」を歩まされることになった。
「国技なのにだらしない」とか、「相撲道にもとる」とか今日も非難するが、「国技とは何か」「相撲道とは何か」はよくわからない。板垣退助も、「国技館と名付けたのは自分の不行き届き」と述べ、後悔していた。
16)山鹿素行(『武士道』を書いた人)によると、相撲はけがはするし、手足が太く見苦しくなるので、専門家相撲取り(遊芸)の見世物にしましたという程度のもの。
17)戦時体制下、相撲は「国固有の技」として奉られ、日本精神を具現化したものとして、全国津々浦々、軍に至るまで、普及。昭和18年の「相撲界」という冊子には、『撃ちてしやまん』精神とか、「全身これ闘魂」とか、本当はお相撲さんは「ゆるゆる精神」だったのに、勝手にキャプションが。
国家総動員計画は、国家お相撲さん計画と同義に。なぜか、「神々の国獲りで「力比べ」からはじまったことになり(伝説だから検証のしようがない)、神と結びつく・・・全国各地の神社に「土俵づくり」・・・昭和17年には、相撲は単なる遊技から、「必修科目」へ。相撲の価値や本質はよくわからないが、「国技だからいいものに決まっている」と・・・。
しかし、子どもはもともと自然に「自ずからなる」相撲を取っていた。すでに普及しているのに、「国技だから」と普及に取り組むと、文科省の取り組む姿勢だけが空回りになった。
18)力士は、戦中であろうがなんでろうが、「呑気」。労働慰問の後に相撲を取るが、『手を抜けなくなって困った』。興行相撲を反省し、決戦相撲体制を訴える力士も登場。タニマチや観衆から食べさせてもらうのではなく「国家から食べさせてもらうのだから」と。ごっつあん精神の対象がかわっただけ・・・。
19)国会議員は相撲をたるんでいると非難しはじめ、あんこ体型がいかん。国民はやせているのに・・待ったもいかん。待ったをすると戦争に負ける・・・武士の取るべき態度ではない!。
相撲協会は反論。「待ったは自分のことだけではなく、相手のことも考える、相撲道である!」いつの間にか、相撲道を反論の材料に・・・。陸軍はこれを聞き、「戦争は、すなわち待ったの事」と戦争に取り入れ・・・「大東亜相撲圏」建設へ・・・。
20)工場動員でへとへとの力士、戦地に出向き、人数が半減した力士は、「相撲どころではありません」というが、否定しながらも土俵に上がる力士を、記者は「必死必中の体当たり精神」と書くから、相撲協会も体当たりの元祖として再講釈するように・・・。相撲中継ラジオ放送は大東亜共栄圏向け放送で、「ルーズベルトよチャーチルよ、この歓声を聞け!戦う日本の強さだ!」と。
21)敗戦後の11月にも、秋場所開催。作った伝統ではなく、相撲は「続けるもの」。客席にはアメリカ人がいっぱい。相撲協会は、「相撲は本来争ったり、傷つけあうことではなく、最初から人を喜ばせるための「スポーツだ!」と」。
相撲とは本来、「きわめて平和的なめでたく楽しい行事」「戦争とは関係ない、競技だと」狭義のために土俵を15尺から16しゃくに拡張。土俵など、もともと広さは適当なものだったから。ただし、広くなった土俵で力士がくたびれたため、すぐに元のサイズに。
十二代の神々の名前を祝詞を読み上げたのだが、三神に短縮。GHQにそれぞれの由来を聞かれたら、わからないから答えられないので、三神に短くした。
相撲の本質は「のんき」
22)いつの間にか、「力士」に品格が求められるようになった。横綱審議委員会(昭和25年~ 協会の諮問に対する答申と進言のみで、決定権も責任ももともとない)が求めだした。
この時3人の横綱がいたが、皆、千秋楽までに休場してしまい、協会は世間から非難を浴びた。そこで、「横綱は大関格下げにする」という新ルールを策定したが、場所後に「3人のだれを格下げするか、本当に格下げしてよいものか」紛糾し、「横綱には伝統と権威がある」と格下げ自体を撤回してしまった。
格下げの代わりに「諮問機関」をつくったのが「横審」。自分たちで決めると角が立つので、第三者に決めてもらい、非難をかわすための苦肉策。横審が「品格・力量」という内規を定めた。力量だけに限定すると、横綱がいなくなってしまう(3人の例)ので、「品格」という救済策をつくった。それがいつの間にかひとり歩きしてしまった。
枕詞のように、「武士道」とか、「品格」と言われるのは、後付も後付・・・。
相撲は本来「のほほん」。
23)行事は、公正・中立のようだが、全員「各部屋付きの親方」。最高位の行司差し違えは、進退伺いになる(腹切り用の刀まで差している)。しかし、「きわどい勝負で難しかった」と理事長になだめられ、今までに辞めた人はいない。あくまでも[儀式]。年功序列のお相撲さんのような感じ。
24)行事の仕切り(今は軍配を返す形)も、ラジオ放送が始まってから。それまでは、仕切りに30分も1時間もかかっていたが、ラジオ放送は午後6時で終わり。それに間に合わせるために、今の形に。紫、朱、紅、青などの装束も、カラーテレビ放送に合わせて染めることに・・・。すべて「便宜上」。式守と、木村に、流派の違いなど、ない。軍配の握り方が違うが、それもガチガチではない。
25)土俵祭の祝詞(行事が暗唱)も、「口伝」。本来は、神主が行うことを、「先輩から伝承」
26)『相撲史伝』によると、「式礼を整える」とは、「複雑にすること」。複雑にすると、自ずと「厳粛」を示すことになるから。「土俵は、『高尚なる理』に基づいて作られたものとは信じてはならない」と諭している。
27)呼び出しの秀男さんいわく、呼び出しの生活は、「暇があり過ぎ」。「合理的じゃないことだらけ」しかし、合理性を追求すると、「呼出もいらない」ということに・・・。相撲に合理性を追求したら何もなくなってしまう。だから、無から有をつくる。土俵があるから、仕事ができる・・・。
結論
国技だと思えば国技になり、スポーツだと思えばスポーツになり、「なんだか知らないけど続いている」から「伝統」になる。もはや、「人間の意思を超越」しているから、「伝統」。
「まつりごと=祭りごと=政」。みな、それにぶら下がって、生きている。
「歴史と伝統」など、こんなものです。○○道、○○精神も、同様です。
追記
1)お相撲さんは、「なんとなくここ(相撲部屋)にいた」という人ばかり。理由は様々ですが、「なんとなく」が一番多い。
2)黒海という力士が、とんとんと昇って行ったのは、「普通」のこと。本人いわく、「厳しくない」。稽古の後、特別な練習などしない。親方曰く「ふつう」「やる人は言われなくてもやるし、やらない人は言われてもやらない」
3)外国人力士は「モノが違う」。相撲の方云々ではなく、スピードとパワーは、日本人の比ではない。外国人力士に勝つことは、「ふつうは無理」。
4)「横綱目指して」と人は言うが、それは野球界でいえば、「イチローになれ」と言うのと同じ。横綱朝青龍や、白鵬は「強すぎる」。「十両が目標」というと、残念そうな顔をされるが、本当は「三段目」が目標。ゴムぞうりから雪駄に変わるから。
3)相撲は当たると痛い。首も頭も・・。だから、当たるのは怖い。
4)激しいとされる稽古は「午前中」で終わり。同時に取るのは2人だけ。あとは、みなハアハア言って、土俵を囲んでいる。稽古に参加しているだけで、息苦しくなるほど。「流れ(あ・うんの呼吸)」でやる、申し合い稽古(相撲を取る)とぶつかりげいこの2種類のみ。
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