WTO・FTA/EPA・TPP その1
<WTO・FTA/EPA・TPP>
読売新聞H23.5.22「ドーハ・ラウンド WTO交渉『消滅』危機」
世界貿易機関(WTO)は26日にパリで非公式閣僚会合を開き、行き詰っている新多角的貿易交渉(ドーハ・ラウンド)の打開を模索する。
…声明は、7月の閣僚会合での大筋合意を経て年内に妥結する―とのシナリオの実現が難しい現状を認めたものだ。
…鉱工業品分野では、新興国の市場開放を求める米国と関税維持を主張する中国が、農業分野では米国とインドが対立する構図が続いている。
…「年内合意」の機械を逃せば、ラウンドそのものが消滅しかねない。
…WTOでは過去に撤回されたラウンドはなく、交渉の白紙化は自由貿易体制を揺るがしかねない。…WTOが存在意義を失いかねないとの懸念もある。
…交渉の停滞に業を煮やした主要国は、環太平洋経済連携協定(TPP)や経済連携協定(EPA)など、地域を限った貿易自由化を進めてきた。
世界の自由貿易体制推進役のWTOの交渉ラウンド、ドーハ・ラウンドが停滞しています。しかも2001年からですから、もう10年も動いていないのです。各国は「WTO合意(153か国)なんてもう無理だから、FTA(数か国による協定)やEPA(貿易以外の協定も含む)合意を加速しよう」と動き、WTOの存在意義が危ういとの記事です。
<自由貿易推進>
そもそも、自由貿易がなぜ必要なのか、歴史を追ってみましょう。
第一次世界大戦後,1920年代のアメリカは,「永遠の繁栄」と呼ばれるほど,経済的な繁栄をしていました。大戦で使う機械や兵器,日常物資の輸出によって重工業が発展しました。戦争から返ってきた兵隊は,再びモノやサービスを購入する消費者に戻りました。モータリゼーション時代が始まり,自動車工業は飛躍的に伸びました。戦争で被害を被ったヨーロッパは,モノやサービスを生産することができず,一方,アメリカのモノやサービスは世界中に輸出されました。(本当は,ソ連が,世界市場から離脱するなど,アメリカのモノやサービスは,作りすぎを抱えていたのですが・・)
この好景気を背景に,アメリカの株式市場には,1924年中頃から,投機(その会社の株を買って支援する投資と違い,株価が値上がりしたら,売ってもうけることを目的とする)を中心とした資金が入り,どんどん株価が上昇していきました。「株式で儲けを得た」という話がさらに広まり,さらに投機熱は高まり,株価平均は,5年間で5倍に高騰しました。1929年9月3日には,平均株価は最高価格を記録したのです。その日をピークに,平均株価は,あがったり下がったりの乱高下を繰り返しました。
そのような状況の中,1929年10月24日(後に「暗黒の木曜日」と言われる),株は,「売り」ばかりになり,大暴落したのです。週明けの火曜日にも,「売り」ばかりで,再び大暴落,たった1週間で,アメリカ政府の1年間の予算の10倍に相当する,300億ドルが,株価の下落で失われてしまいました。投機していた人は,少ない損害ですむように,さらに他の株を売って防衛しようとし,「売り」が殺到し,「買う人」はいなかったのです。
自殺者や破産者が相次ぎ,アメリカ経済は,文字通り「一夜にして」崩壊したのです。これが世界恐慌(世界大恐慌)の始まりでした。
東京書籍 『資料 新総合政・経』最新版 2005 p170

株価の大暴落は,世界中に影響を及ぼしました。1933年の失業率は,アメリカで25%,ドイツで26%にも及びました。アメリカのGDPも,20%以上落ち込みました。各国はこのとき,保護貿易政策を採用します。自国の人々の雇用(仕事)を確保するため,輸入を制限する関税を切り上げました。
1930年にアメリカで成立したスムート=ホーレー法により,アメリカの平均関税率は40%前後に達しました。各国からアメリカへの輸出は急激に落ち込み,1932年,イギリス連邦が,広大な領域を他国に対して閉ざし,フランスも続きます。このように,各国は封鎖的な経済圏ブロックを作ったのです。ブロック内の経済を密にし,ブロック外の国々の商品に対しては,輸入の禁止・制限,高率の関税をかけたのです。
このような政策を多くの国が採用したため,貿易は縮小し,世界経済は崩壊してゆくのです。世界工業生産の約30%,世界貿易の約65%を収縮し,失業者は4000万人を超えてしまいました。そして,これが,第二次大戦の要因となってゆくのです。
東京書籍 『資料 新総合政・経』最新版 2005 p170

東京法令出版 『政治・経済資料2008』p179

スターリング・ブロック(英),フラン・ブロック,ドル・ブロック
ドイツ生存圏,円ブロック(大東亜共栄圏)
↓
世界貿易の縮小
↓
各国の生き残りをかけた勢力圏の拡大
↓
植民地分割闘争
↓
第二次世界大戦
アメリカは莫大な自国市場を持ち、英仏は世界各地に植民地市場を持ちます。それらが、ブロック(文字通り,塀)を作り、保護貿易化しました。
植民地を持たない、遅れて追いついてきた工業国の日本・ドイツは、植民地・領土拡大政策を採用し、ついに、欧米の権益と激突しました。
実は,この分析は,1944年夏の連合国通貨金融会議(通称ブレトン・ウッズ会議)の席上,第二次世界大戦の原因として,共通認識されたものです。この反省に立って,ブレトン・ウッズ会議では,戦後の新たな国際経済の秩序を作ろうと国際通貨基金IMFと,国際復興開発銀行IBRDの設立が合意されました。また,1947年には,関税及び貿易に関する一般協定(GATT)が誕生することとなったのです。
米英は、日本やドイツと戦争中に、すでに戦後の国際秩序(国際連合)と国際通貨・経済体制(IMF/GATT)を構築しようと動いていたのですから、日本とはあらゆる意味において雲泥の差があったことが分かります。
国際通貨基金IMFは国際通貨制度の安定,国際復興開発銀行IBRDは主に,戦争で疲弊したヨーロッパの復興を目指しました。そして,関税及び貿易に関する一般協定(GATT)は自由な貿易体制を実現しようとする協定です。これらの,為替相場の安定と,国際貿易の拡大及び均衡のとれた発展を目的とした,戦後の体制を,ブレトン・ウッズ体制とか,IMF=GATT体制といいます。
GATTは自由貿易拡大のため,貿易の流れを阻止する障壁を多国間の交渉によって取り除くことを目的にしました。その原則は,次の通りです。
①自由・・・関税や非関税障壁の撤廃
②多角・・・多国間で交渉する
③無差別・・ある国に対し,関税を引き下げれば,他の全ての加盟国に対し適用される
IMFは、貿易決済に必要な資金の過不足を補う目的も持っています。
GATTの多角的交渉は,規模の拡大とともにラウンドと呼ばれ,1967年のケネディ=ラウンド,1979年の東京=ラウンド,1986年から始まったウルグアイ=ラウンドなど,計8回の交渉が行われました。ケネディ=ラウンド,東京=ラウンドでは,関税の大幅な引き下げが行われました。
こうしたGATTの多角的交渉により,貿易の拡大がもたらされ,各国経済が成長したことは,間違いありません。差別的貿易政策から,ブロック経済へ至った1930年代の反省に基づくGATTの理念は,各国の保護主義を克服してきたのです。
山川出版社 教科書『詳説政治経済』2006 p154
現在GATTの理念は,WTO(世界貿易機関)1995~に受け継がれています。GATTは,国際機関ではなく,モノの貿易を扱う,協定でした。WTOは,1986年に開始されたウルグアイ=ラウンド交渉において,貿易ルールの大幅な拡大が行われるとともに,これらを運営する国際機関の必要性が高まり,1994年に設立が合意されました。
モノの他,サービス,知的財産権を扱う,機関です。各国経済において,サービス産業が拡大し,同時にサービス貿易も拡大しました。さらに,貿易と知的財産権(商標・デザイン意匠・アイディアなど)の関係など,GATTのルール以外の重要性が増してきました。サービスや知的財産の貿易が重要になっている現実に即して,モノの貿易に関する協定だったGATTの枠組みを拡張したのです。
ただし、投資に関する協定・日本の独占禁止法に相当するような協定が、ありません。投資協定・競争法は、FTAで行われています。

その2に続く
読売新聞H23.5.22「ドーハ・ラウンド WTO交渉『消滅』危機」
世界貿易機関(WTO)は26日にパリで非公式閣僚会合を開き、行き詰っている新多角的貿易交渉(ドーハ・ラウンド)の打開を模索する。
…声明は、7月の閣僚会合での大筋合意を経て年内に妥結する―とのシナリオの実現が難しい現状を認めたものだ。
…鉱工業品分野では、新興国の市場開放を求める米国と関税維持を主張する中国が、農業分野では米国とインドが対立する構図が続いている。
…「年内合意」の機械を逃せば、ラウンドそのものが消滅しかねない。
…WTOでは過去に撤回されたラウンドはなく、交渉の白紙化は自由貿易体制を揺るがしかねない。…WTOが存在意義を失いかねないとの懸念もある。
…交渉の停滞に業を煮やした主要国は、環太平洋経済連携協定(TPP)や経済連携協定(EPA)など、地域を限った貿易自由化を進めてきた。
世界の自由貿易体制推進役のWTOの交渉ラウンド、ドーハ・ラウンドが停滞しています。しかも2001年からですから、もう10年も動いていないのです。各国は「WTO合意(153か国)なんてもう無理だから、FTA(数か国による協定)やEPA(貿易以外の協定も含む)合意を加速しよう」と動き、WTOの存在意義が危ういとの記事です。
<自由貿易推進>
そもそも、自由貿易がなぜ必要なのか、歴史を追ってみましょう。
第一次世界大戦後,1920年代のアメリカは,「永遠の繁栄」と呼ばれるほど,経済的な繁栄をしていました。大戦で使う機械や兵器,日常物資の輸出によって重工業が発展しました。戦争から返ってきた兵隊は,再びモノやサービスを購入する消費者に戻りました。モータリゼーション時代が始まり,自動車工業は飛躍的に伸びました。戦争で被害を被ったヨーロッパは,モノやサービスを生産することができず,一方,アメリカのモノやサービスは世界中に輸出されました。(本当は,ソ連が,世界市場から離脱するなど,アメリカのモノやサービスは,作りすぎを抱えていたのですが・・)
この好景気を背景に,アメリカの株式市場には,1924年中頃から,投機(その会社の株を買って支援する投資と違い,株価が値上がりしたら,売ってもうけることを目的とする)を中心とした資金が入り,どんどん株価が上昇していきました。「株式で儲けを得た」という話がさらに広まり,さらに投機熱は高まり,株価平均は,5年間で5倍に高騰しました。1929年9月3日には,平均株価は最高価格を記録したのです。その日をピークに,平均株価は,あがったり下がったりの乱高下を繰り返しました。
そのような状況の中,1929年10月24日(後に「暗黒の木曜日」と言われる),株は,「売り」ばかりになり,大暴落したのです。週明けの火曜日にも,「売り」ばかりで,再び大暴落,たった1週間で,アメリカ政府の1年間の予算の10倍に相当する,300億ドルが,株価の下落で失われてしまいました。投機していた人は,少ない損害ですむように,さらに他の株を売って防衛しようとし,「売り」が殺到し,「買う人」はいなかったのです。
自殺者や破産者が相次ぎ,アメリカ経済は,文字通り「一夜にして」崩壊したのです。これが世界恐慌(世界大恐慌)の始まりでした。
東京書籍 『資料 新総合政・経』最新版 2005 p170

株価の大暴落は,世界中に影響を及ぼしました。1933年の失業率は,アメリカで25%,ドイツで26%にも及びました。アメリカのGDPも,20%以上落ち込みました。各国はこのとき,保護貿易政策を採用します。自国の人々の雇用(仕事)を確保するため,輸入を制限する関税を切り上げました。
1930年にアメリカで成立したスムート=ホーレー法により,アメリカの平均関税率は40%前後に達しました。各国からアメリカへの輸出は急激に落ち込み,1932年,イギリス連邦が,広大な領域を他国に対して閉ざし,フランスも続きます。このように,各国は封鎖的な経済圏ブロックを作ったのです。ブロック内の経済を密にし,ブロック外の国々の商品に対しては,輸入の禁止・制限,高率の関税をかけたのです。
このような政策を多くの国が採用したため,貿易は縮小し,世界経済は崩壊してゆくのです。世界工業生産の約30%,世界貿易の約65%を収縮し,失業者は4000万人を超えてしまいました。そして,これが,第二次大戦の要因となってゆくのです。
東京書籍 『資料 新総合政・経』最新版 2005 p170

東京法令出版 『政治・経済資料2008』p179

スターリング・ブロック(英),フラン・ブロック,ドル・ブロック
ドイツ生存圏,円ブロック(大東亜共栄圏)
↓
世界貿易の縮小
↓
各国の生き残りをかけた勢力圏の拡大
↓
植民地分割闘争
↓
第二次世界大戦
アメリカは莫大な自国市場を持ち、英仏は世界各地に植民地市場を持ちます。それらが、ブロック(文字通り,塀)を作り、保護貿易化しました。
植民地を持たない、遅れて追いついてきた工業国の日本・ドイツは、植民地・領土拡大政策を採用し、ついに、欧米の権益と激突しました。
実は,この分析は,1944年夏の連合国通貨金融会議(通称ブレトン・ウッズ会議)の席上,第二次世界大戦の原因として,共通認識されたものです。この反省に立って,ブレトン・ウッズ会議では,戦後の新たな国際経済の秩序を作ろうと国際通貨基金IMFと,国際復興開発銀行IBRDの設立が合意されました。また,1947年には,関税及び貿易に関する一般協定(GATT)が誕生することとなったのです。
米英は、日本やドイツと戦争中に、すでに戦後の国際秩序(国際連合)と国際通貨・経済体制(IMF/GATT)を構築しようと動いていたのですから、日本とはあらゆる意味において雲泥の差があったことが分かります。
国際通貨基金IMFは国際通貨制度の安定,国際復興開発銀行IBRDは主に,戦争で疲弊したヨーロッパの復興を目指しました。そして,関税及び貿易に関する一般協定(GATT)は自由な貿易体制を実現しようとする協定です。これらの,為替相場の安定と,国際貿易の拡大及び均衡のとれた発展を目的とした,戦後の体制を,ブレトン・ウッズ体制とか,IMF=GATT体制といいます。
GATTは自由貿易拡大のため,貿易の流れを阻止する障壁を多国間の交渉によって取り除くことを目的にしました。その原則は,次の通りです。
①自由・・・関税や非関税障壁の撤廃
②多角・・・多国間で交渉する
③無差別・・ある国に対し,関税を引き下げれば,他の全ての加盟国に対し適用される
IMFは、貿易決済に必要な資金の過不足を補う目的も持っています。
GATTの多角的交渉は,規模の拡大とともにラウンドと呼ばれ,1967年のケネディ=ラウンド,1979年の東京=ラウンド,1986年から始まったウルグアイ=ラウンドなど,計8回の交渉が行われました。ケネディ=ラウンド,東京=ラウンドでは,関税の大幅な引き下げが行われました。
こうしたGATTの多角的交渉により,貿易の拡大がもたらされ,各国経済が成長したことは,間違いありません。差別的貿易政策から,ブロック経済へ至った1930年代の反省に基づくGATTの理念は,各国の保護主義を克服してきたのです。
山川出版社 教科書『詳説政治経済』2006 p154

現在GATTの理念は,WTO(世界貿易機関)1995~に受け継がれています。GATTは,国際機関ではなく,モノの貿易を扱う,協定でした。WTOは,1986年に開始されたウルグアイ=ラウンド交渉において,貿易ルールの大幅な拡大が行われるとともに,これらを運営する国際機関の必要性が高まり,1994年に設立が合意されました。
モノの他,サービス,知的財産権を扱う,機関です。各国経済において,サービス産業が拡大し,同時にサービス貿易も拡大しました。さらに,貿易と知的財産権(商標・デザイン意匠・アイディアなど)の関係など,GATTのルール以外の重要性が増してきました。サービスや知的財産の貿易が重要になっている現実に即して,モノの貿易に関する協定だったGATTの枠組みを拡張したのです。
ただし、投資に関する協定・日本の独占禁止法に相当するような協定が、ありません。投資協定・競争法は、FTAで行われています。

その2に続く
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genre : 政治・経済