<競争しないと、どうなるか? 運動会手つなぎゴールの結果>
とにかく「平等」でありさえすればいいという教育が蔓延した時期がありました。
運動会で、差がつく徒競走をしない、徒競走をしても順位をつけない、あるいは、手をつないでゴールするというものです。
では、このような教育を受けた子供たちはその後、どうなったのでしょうか?
大竹文雄「競争社会の歩き方」 中公新書 2017
P143
伊藤・窪田・大竹の分析結果は衝撃的だ。反競争的な教育を受けた人たちは、利他性が低く、強力に否定的で、互恵的ではないが、やられたらやり返すという価値観を持つ傾向が高く、再分配政策にも否定的な可能性が高い。
なぜ、このような結果になるのでしょう?
P144
反競争主義的で協力する心をもたらそうとした教育が、能力が同じという思想となって子どもたちに伝わると、能力が同じなのだから、所得が低い人は怠けているからだという発想を植え付けることにつながった可能性がある。つまり、能力が同じなら、助け合う必要もない、所得再分配も必要がない、ということになってしまった…。やり方を少し間違えると、教育は意図したものとは異なる価値観を子どもたちに与えてしまう。
つまり、すべての子供が、本来は100点を取る能力を持っている(能力的にはヒトはみな平等)。授業のやり方次第では全員が100点を取れるし、それが正しい教育だ・・・それを目指さなければならない・・・。
こういう教育を受けると、
「誰もが同じ能力を持っている、だれもが平等だ、だから誰もが『努力すれば、教育を通じて成功を得られる』、誰にでも『チャンスが与えられている』」と考えます。
結果、「所得が低い人は怠けている、努力をしていないんだ」という考えを強く持つのです。
「平等」を強調した結果、「差異は、その人が努力しないから生じるんだ!!!!」という考え方を強く持つようになってしまいました。
人は、背の高い人も低い人も、足の速い人も遅い人も、オンチの人も歌のうまい人も、目の見えない人も耳の聞こえない人も、手のないヒトも足のないヒトも、難病の人も・・・います。これが「現実」です。生得による「差」も歴然としてあります。
健常者(強者)でも障害者(弱者)でも、この世に無駄なヒトは1人もいないというのが、「比較優位」の考え方です。
中島隆信「社会的弱者に雇用の場を」日経2010.5.10
経済学上最大の発見ともいわれる「比較優位」の考え方は、弱者を社会から排除することの非合理性を見事に説明する。
超人にせよ弱者にせよ、すべての人がその持っている能力のうちの相対的に優れた部分を最大限に生かして社会参加をし、あとからその成果を配分した方がすべての人の利益を増やせるのである。
全員が能力的に平等・・・そんなもの、この世にはありません。「やればできる」などということは、絶対にないのです。「やればできる」のは、そのヒトの持つ「能力の範囲内」での話なのです。
中高の教科書でわかる経済学ミクロ・マクロ編分かりやいね。まぁ〜結局翻訳をもっと日本の経営してる会社や物にすればもっと分かりやすくなると思うんだよね、特にこの手の本は。
dorimogu_daxa