文化と伝統など、後で作った話に過ぎない3  「欧米」と、ひとくくりにするあやまち

<文化と伝統など、後で作った話に過ぎない>

コメントする方は、質問欄からお願いします。ルールを逸脱する方がおり、大変迷惑してます。

 一口に、「欧米」といっても、中身はまったく違うようです。英仏、米仏で違うかと思いきや、英米(アングロサクソン)でもまるっきり違うようです。

オティエ由美子
 『イギリス、日本、フランス、アメリカ、全部住んでみた私の結論。日本が一番暮らしやすい国でした』泰文堂 2014
 より

1)日本には、「カタカナ」が合ってよかった・・・

 フランスでは、外来語については「アカデミー・フランセーズ」が、フランス語が乱れないよう、年に数回会議をし、「フランス語高等委員会」が普及するシステム。

 コンピュータ→オルディナター
 ソフト→ロジシエル
 Eメール→クリエル

企業内のコミュニケーションを英語で行うことも、法律で禁止(1994年)。楽天やユニクロなど、フランスではありえない!

2)アメリカは、移民の国だから、ニューヨークと言っても人々の意識はみな内向き。外の世界のことなど、どうでもいい話になってしまう。スポーツもアメフト、野球、バスケ・・・アメリカ限定のスポーツばかり・・・サッカーがようやく・・・だが、外に目を向けるには期待薄。

3)仏は自己主張はあたりまえ。謝らない文化は、米仏。英はそれらに比べると謝る方。自己主張は米がダントツ。

4)英仏のユーモアは、場所など関係なく飛ばされる。きつい皮肉やブラックジョークが当たり前。初対面だろうがなんだろうが、飛ばす。米は、時と場所によるユーモアが求められる。

 英では、ビールよりも何よりも「ユーモア」。英国魂のよう。

5)風刺は、フランス。福島原発記事で、3本の手足の相撲とりの風刺画を載せた、「カナール・アンシェネ」。日本は猛抗議したが、フランスでは、「そのペーパーなどそんなもの」「日本人には毒入りユーモアが分からない(時がある)」という感覚」。

 日本では、病気・死、天災、障害、差別にかかわるユーモアは「タブー」。しかし、これは「文化」の違い。要するに、どちらがどうのと言う問題ではない。 

 イギリスBBC放送。「日本では原爆に2度も遭遇した、世界一不運な人がいる。電車で長崎に移動したと言うが、そんなさ中に電車が運行されていたとは驚き。それに比べてわが国の電車は・・・」という放送に、日本が抗議、謝罪。
 「イギリス人やフランス人には倫理観と言うものが欠如しているのでは???」と思わないように気をつけたい。それは「日本独自」だから。

6)英語コンプレックスは、フランスの方がひどい。英語を話せる人はフランスでもかっこいいと思われる。少しでも英語ができれば、観光客相手に披露したがる。フランス人は相当英語コンプレックスを抱えている。日本人と比較してもどちらが重症か、判断できないほど。仏新聞には、「なぜ我々はこんなに英語ができないのか」と特集記事が組まれるほど。

①中高図書室に英語の本が皆無
②TVは吹き替えが原則
③英語授業は文法・書き取り中心。オーラル軽視。

7)アメリカは移民者向けバイリンガルが徹底。公立のバイリンガル・プログラム。1963年~。授業の半分は英語、半分は母国語が徹底(カナダは、もっと徹底)。今はさらに拡大中で、ニューヨーク市だけでも300校を超す。理由は同時多発テロ。アラビア語を操れる人が政府組織にもほとんどいなかったから。しかし、「税金の無駄」という反対意見も多数。

 確実なのは「母語さえしっかりしていれば、第二外国語は大人になってからでも習得可」という事実。「バイリンガルを育てれば、長い目で見たときにその国の強みになる」「母語と日本語の授業・・これが将来の日本の強みに」

8)理数系はエリート、仏は並外れている。文系が就職に不利は、日本の比ではない。エリートは、みな「工学系グランゼコール」という、大学とは別組織。最高峰「理工校学校(ポリテクニーク)」の歴史はナポレオン時代から。ゴーンさんもここ出身。ただし、ルノーをみてもわかるように、フランスは半分「社会主義」の国。アンチ・グローバリズム、アンチ資本主義の左派勢力がとても強い国。

9)英米は数学が泣き所。数学に弱い人が圧倒的に多い。米メディアでも「「なぜ我々はこんなに数学が弱いのか」と特集されるほど。教科書は貸与(何年も引き継ぎ使用される)・分厚い・家でも置きっぱなし、授業はプリント。ただし、2018年までにオバマにより「電子教科書導入」に。そのかわり、学校教育ではプレゼンテーション授業は徹底。
 金融街シティで働く人はみな営業担当で、高度な数学能力が必要な部門は、仏・ロシア・中・インド系ばかり。アメリカでもウォール街は中・インド系アメリカ人ばかり。白人は少数。 ぶっちぎりで、算数が得意なのは、「日本人」。

10)しつけは、フランスは厳しい。他人の子供にも容赦ない。たたくのも当たり前。英米では絶対禁止。英米では静かにさとし、子どものときから怒鳴られたことなどない。日本はどちらかというと仏式。仏の子は概して従順、英米はマイペース。英米では「仏式教育本」がベストセラーにもなるほど。ただし大人になると英では、「社交的(共同体に気を使う)」になり、仏では「自分さえよければいい(親以外の人に態度が悪い)という個人主義」的になる傾向。これは当たっているようだとのこと。

11)カップル文化
 徹底は、仏。すべて。夫が50年間、妻を1人にしたことがないなど、ざら。同性友達とレストランでも、「パートナー同伴か否か」を必ず事前予約。日本の「乳幼児と母親」と同じようなもの。がっつり「カップル文化」。
英では、パブで、男性が週に2~3日過ごすなど、当たり前。日米英では、同性同士の集まりも頻繁(ただし正式な場所ではカップルのみ。わざわざ大学時代の友人に頼み込んで出席しなければならないことも)。「おひとり様文化」では日本は断トツ。

12)階層・階級

日本は、貧富の差が少ない。都内高級宅地でもロンドンパリニューヨークの8~7割程度。教育費(私立小)も半分から1/3.一般サラリーマンが、一点豪華主義や共働きなら、手の届くレベル。

ロン・パリ・ニューヨークの庶民は、どんなに背伸びしても高級宅地に住むのは不可能。両者にはどうあがいても越えられない壁。
富裕層は使うカネも多いが、出ていくカネも多い。スーパー・デパートも階層によって細かく分類。
貧困層と中間層の差も顕著。圧倒的なのは、あきらかに「有色人種」少数の例外を除いて貧富の差はそのまま人種の差。

何らかの扶助を受けている貧困層は15~20%、日本は1.5%。英仏では貧困層に対する風当たりが激しい。自分の血税が生活保護受給者に絞り取られていると感じ反感を抱く中間層が多い。仏の場合、受給者の移民が占める割合は少なくないので当然怒りは移民に向けられる。

米は、人種間の経済格差が如実。ニューヨークでもホワイトカラーは白人、ブルーは黒人かヒスパニック。管理は白人。スーパーやアパート管理でも同じ。レジ係や宅配担当は黒人かヒスパニック。韓国系小売店は店長が韓国系、従業員はほぼ100%ヒスパニック。
パリやロンドンではここまで歴然とした差はない。

プライベートにおいてもニューヨークでは同人種で動く。人種がまざって行動しないので、サラダボールと呼ばれる。人種差別はタブーだが、黒人ヒスパニックと白人の間の経済格差は差別格差と変わっていない。

人種差別問題=貧困問題のこと。

黒人や有色人種は、白人には「サー」という敬称を付けるが、アジア人にはつけない。

アメリカ社会の裕福な家庭の子供は、カネのかかる教育を受けて、アイビーリーグに進み、高収入の仕事に就く。
フードスタンプの支給を受ける部貧困家庭の子供は、質の悪い公立高校で、就けるのは非熟練低賃金の仕事のみ。貧困家庭から富裕層に改装移動できる率は限りなく低い。中間層にまで浮上できるレベルも30%程度。
アメリカ公立高校では、勉強を頑張ろうとする生徒がいると「白人のまねをするやつ」と呼ばれ、黒人同士の間で仲間外れにされる。
フランスとイギリスでは人種より、移民というくくりの差別。フランスは反イスラム色が強い。フランスにおけるアラブ人は移民+イスラム教徒という点において二重苦を背負っている。住む場所によって、どういう階層かがすぐわかる。

階級に異様にこだわるイギリス人、イギリスはアッパークラス・ミドルクラス・ロウワクラス。ミドルクラスの中でも三つにわかれ、アッパー・ミドル・ロウワ―までいる。イギリス国民にとって階級は非常に重要な分類。日々強烈に認識しながら生活。

英では、階級制度がと経済力とは一致しない。いかに経済的に落ちぶるれようと、上流階級出身者は、社会では上流終身階級者として扱い続けられる。たとえホームレスになっても。
労働者階級出身であれば企業家でも「成金」としか呼ばれない。

出身階級は即座にわかる、英語のアクセント。一言口を聞けば出身階級・出身地域・パブリックスクールか公立校か、まであてられてしまう。日本人の地方出身者が方言を標準語に変えることよりもずっと難しい。外人は、イギリス人社会からはアウトサイダー扱い。

フランス人はストライキやデモが好き。数日等生ぬるい。3週間続いたストもある。
フランスの共産主義者は、「出資等労働組合が企業側と交渉を行うだけでは不十分であり、労働者は自分にできる方法で直接企業に訴えるべきだ」と考える。旧国鉄一般職員の定年は54才、運転手は50才。この優遇措置を改正したいと試みるものの、そのたびに、猛反発。軍隊、警察、国会議員、電気ガス会社、オペラ座及びコメディー官製館職員といった人たち。赤字の主要原因が年金制度。

結論。

文化など、千差万別で、唯一の答えなどない。

基準などないのに、自分の考え方ををごり押しするのは、異常(政治家は除く)。

みなバラバラだと認識すると、意見など、すべて「個人的意見」。

TV解説者も、専門的知識で説明する範囲なら、専門家の領域。ただし、「意見」を言った途端に、TV前の視聴者の1人と
同じ。普遍性など全くない。

追記

このブログでは、「意見」は必要ありません。見聞すること自体が、私にとっては自分の時間を奪われるので、大変苦痛です。

私にも意見はありますが、「意見」を書かない(冗談をのぞき)のは、そういうことです。自分が知りたいこと、知りたい情報、知りたい番組は、自分で探しますので、皆さんの意見を「押し付けないで」ください。

自分がひまな人は、相手もヒマだと思い、自分が悲観的なら、相手も「悲観的」な考え方をするものだ・・他人もこう考えているだろうと推測するのは、自分自身の反映・・・「人間は万物の尺度」というのは、すべて「自分自身を基準として、対象を認識する」ことです。


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絶対? 表現の自由

<絶対に?>

 さて、フランスの風刺画について、過去記事です。その中で、次のように書きました。

クリック

風刺画の理由

ムスリムにとっては、宗教こそ、生きる価値そのものです。何のために生きるか、それは神のおぼしめしだからです。宗教=人生そのものです。

風刺画は、宗教をバカにします。「宗教なんて、価値なんかないよ」と、絶対価値を相対化します。そのために、一番強烈な表現方法を使います。
もちろん、イエスも風刺画の対象です。

価値の相対化が目標なんでしょうね。「この世の価値・生きる価値」も相対化されます。

宗教になんて価値はない、それが相対化です。宗教で食べていっている人もごまんといます。

さあ、では、風刺画に反論してみましょう。「いや、絶対的な価値はある!」



 フランスは「ライシテ」つまり「政教分離」、「公の場に宗教を持ち込まない」が原則です。ですから、政治に宗教は持ち込ませず、公教育に宗教は持ち込ませず(イスラム教徒のスカーフは学校では禁止)・・・です。

 政教分離は、フランスの国是です。18世紀末、教会が非寛容で抑圧的だった時代の産物です。ユグノー弾圧など宗教内戦もありました。

 フランス革命で、「非宗教」が国是となりました。

 12人が殺された、シャリルエブド誌襲撃で、「表現の自由を守れ」と、イギリスキャメロン首相や、ドイツメルケル首相をはじめ、フランスで「表現の自由」を守るために、大規模な集会が行われました。

 しかし、また、デンマークで、表現の自由をめぐり、事件が起きました。

日経電子2月18日

デンマークの首都コペンハーゲンで14日午後(日本時間同日深夜)、表現の自由を巡る会合を狙った銃撃事件が発生し、1人が死亡、3人の警官が負傷した。容疑者は25~30歳くらいの男性1人で、現場から逃走している。デンマーク警察当局は15日未明、別の銃撃事件で3人が負傷したと発表し、警戒を強化している。



 「宗教」を「そんなもの絶対的ではない」と表現の自由をもとに批判する、フランスの精神。これ自体が「宗教的(唯一絶対的な価値)」だと、自らを相対化することができません。

 つまり、ムスリムを相対化してけなしつつ、自らを「絶対だ」としているのです。

 では、「シャリルエブド」を風刺してみましょう。私は絵が描けないので、文字で表現します。

「表現の自由」「ライシテ」を「絶対」とする欧米人は、その宗教のような「絶対的」信念のもと、同胞を失っていることに気付かない。

これは、「シャリルエブド」には描けません。

 「固定相場制」は失敗するのです。なぜなら、ショックを吸収できる緩衝財「ショック・アブゾーバー」がないからです。ドルショック、アジア通貨ショック、アルゼンチン、最近のウクライナまで・・・

「思想」の「固定」も同じです。

ケインズ
この世で難しいのは、新しい考えを受け入れることではなく、精神のすみずみまで根を張った古い考えを捨てることだ。



ドミニク・モイジ 仏を代表する国際政治学者

日経2015.2.16 

 フランスはライシテを掲げているが、これ自体が宗教だと言える。キリスト教、イスラム教、ユダヤ教に次ぐ、第4の宗教というわけだ。他の宗教と同じく非寛容になり得る。



フランスの知性は、すごいです。ちゃんと相対化(学問の本質)しています。かないません。

それに比べて…

<君が言うか!>

クリック

小笠原誠司 いずれにしても、この社説を書いた人は、どれほど経済学の素養がおありなのでしょうか?


この小笠原誠司に、「経済学素養」がないことは、過去記事で明らかです。

カテゴリ「小笠原誠司」参照

 まるで、相撲出身解説者の小笠原誠治が、サッカー解説者(読売社説)によるゴルフ(経済)解説に対し、「どれほどゴルフの素養がおありなのでしょうか」と言っているのと同じです。

結論 ひどすぎる(笑い)

高校生からわかるマクロ・ミクロ経済学
教科書を書いている人もきっと良くわからないまま書いているのだということがわかってしまう、実はとっても怖い本でした。
nagahirogolf

<風刺画の理由>

<風刺画の理由>

風刺画
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 この世は言葉で出来ています。「神はロゴスであった(ヨハネ)」。

政治も、法律も、宗教も、契約も、文学も、歴史も・・・・そして、我々は、それらを絶対視して生きています(疑問を挟まないでと言った方が適切かもしれません)。

法律家は、法律の世界を、学者は教科書を、理系は式を・・・。

さらに、実際にはそれで食べていっていますから。高校歴史の教師は、歴史を教え、数学の教師は数学を教え(それぞれがどの程度自分の教えている世界を大事だと思っているかは別にして・・)。字と言葉が大事で、この場合、学校建物には価値はない。

赤塚不二夫は「シェー」という言葉で、言葉というものに価値を置くこと自体がナンセンスなんだよと、表現しました(タモリ談)。

それで、我々は、所詮この世界はフィクション(虚構)だと自身を相対化します。

ムスリムにとっては、宗教こそ、生きる価値そのものです。何のために生きるか、それは神のおぼしめしだからです。宗教=人生そのものです。

風刺画は、宗教をバカにします。「宗教なんて、価値なんかないよ」と、絶対価値を相対化します。そのために、一番強烈な表現方法を使います。
もちろん、イエスも風刺画の対象です。

価値の相対化が目標なんでしょうね。「この世の価値・生きる価値」も相対化されます。

リフレがどうの、反リフレがどうの、アベノミクスがどうの、アホノミクスだの、みな、それぞれ自分の信条を絶対視しています。そして、都合のいいように、事実を組み立てます。ウソ・虚偽まであります。

経済学・宗教になんて価値はない、それが相対化です。でも、経済学・宗教で食べていっている人もごまんといます。

さあ、では、風刺画に反論してみましょう。「いや、絶対的な価値はある!」

価値観 3

<なぜ、このブログでは、意見はいらないというのか 3>

シベリア抑留

読売H26.7.26

シベリア山奥の収容所。強制労働。感覚を失う手。発熱と下痢に襲われ、意識朦朧、病院送り。ソ連側の婦長の言葉。

ソ連婦長「自分も戦火に追われて体一つで逃げてきた。親も兄弟もない。あなたは帰る家があり、必ず帰れるのだから」と言われた。戦争の犠牲は、戦勝国も変わらないことを知った瞬間だった。



みなさんは、写真記事にある事例の場合、この高亀さんの立場だったら、どう行動しますか?解決策はなんですか?答は、どこにありますか?

読売H26.7.26
 
芥川喜好 「『公』崩壊している」

 日本近代の油彩画家・・野口弥太郎・・。・・彼の言葉をあえて読み替えてみます。問題にきちんと向き合うことをせず、お上と他人の意向ばかり気にして、長いものに巻かれ、「公」 の意識に乏しく、自己利益しか頭にない、大人の振る舞いのできない・・・。

 目を現代に転じてみればどうか。今年も、公人の言葉や振る舞いをめぐる大騒動が続きました。環境大臣の失言、都議会議員の暴言、県議会議員の号泣、と数えながら、激しい無力感に襲われます。公人問題は去年も相次ぎました。その前の年も、その前も-だからです。

 再発防止に努めよう、というような当事者たちの申し合わせはいわば弥縫(びほう)策であり、いずれ忘れられて何も変わらないだろうことを多くの人が知っているからです。問題はもっと根源的なところにあることに気づいているからです。
 
 たとえば都議会におけるあの性差別的なやじは、重大な人権問題であると同時に、「公」というものが崩壊してしまっている風景でもありました。

 やじに悪乗りした者、知らぬふりを決めこんだ者、幕引きを急がせた者、いずれも公人意識のかけらすら感じられません。その昔、当方も地方議会の取材をさんざんやりましたが、この都議会の方が程度が悪い。
 
 的を射た語釈で知られる新明解国語辞典によれば、公人とは「公職に在るという立場で、その行動が問題とされる人」のことです。常に人目にさらされ、「問題とされる」のです。強い精神力と使命感が求められる。覚悟が要るということです。
    
 もう一つ。「公」の場では言っていいことと悪いことの別がある。偏見や差別につながるものが許されないのは、当たり前の話です。そういう、必要な建前を貫くのが公人の、むしろすべての大人の責務でしょう。
 
 頻発する公人あるいは社会的地位の高い人々の問題に共通するのは。事件を起こした当事者たちの幼さということです。「誰が言ったんだ」「早く名乗り出ろよ」「ぼく知らないよ」というやりとりは、まさに子供の間のもめごとです。

 八年前に哲学者鷲田清一さんが本紙に寄稿した「現代おとな考」は、冒頭「わたしたちの生きているこの社会は成熟した社会なのか、それともただの幼稚な社会なのか」と提起して少なからぬ衝撃を与えました。

 責任ある人の幼稚なふるまいが通る社会は、皮肉にも成熟した社会なのかもしれない-と鷲田さんは続けています。洞察の深さに身ぶるいします。

 現代の価値観に従って、多くの人は自分の権利と利益の追求だけで育ってきました。問題に率直に向きあい、あるいは他を思いやり、人にゆずり、時に自分の利を棚上げにするような潔さ、つまり大人の流儀を学んでこなかった。

 公人問題というのは、一人一人の大人にとって、ひとごとではないのです。



伊集院静 悩むが花 週刊文春 H26.7.31

Q 
塗装業で見習いとして働いています。仕事もあまりできる方ではないのですが、それ以前に根本的な部分で気が利かず、理解力がないなど毎日怒られています。
僕は塗装の仕事が好きで、一生の仕事にしたいのですが、自信が無くなつてきました。気を利かせたり、理解力を身につけるには普段からどう気を付けて生活すればいいでしょうか?(25歳・男・塗装業見習い)

A
ここに持ちこまれる相談事は、ほとんどがソウダンと言うより、ジョウダン半分ってのが多いのだが、君は真剣に悩んでいるようなので、少し真面目に考えてあげよう。

 塗装業の見習いをしているのか。イイナアー。
 塗装業ってのは、私も仕事振りを見ていて、やり甲斐のある仕事だろうナ、と子供の頃から憧れていた職業だ。
 何がいいかって?
 塗装の仕事が満足に、綺麗に仕上がった時の達成感というか、充実したものは他の仕事にはなかなかないんじゃないかナ。       
 私の仙台の家も、この間から、あの地震以来初めての工事が入って、外装をしている職人さんたちの仕事を見ていて気持ちが良かったな。
 あんなふうに綺麗に仕上がるのだから、実際の作業は、根気と丁寧さが必要で大変だとは思うけどな。

 さて君の悩みだが、まずは、仕事もあまりできる方じゃないと書いてるが、そりゃ当たり前だ。学校を出てすぐにその仕事についたばかりで、いきなり上手くできるものなら、それはたいした仕事じゃないってことだ。十年、二十年、三十年でやっとできる仕事だから、いいのさ。

 見習いにしちゃ、上手いもんだ、なんて言われてたら、将来まず伸びないし、若いうちの失敗がなきゃ、ゆくゆく独自の仕事は完成しないものだ。

  次に君は根本的に気が利かない、理解力がないと言うが、職人の仕事で気ばっかり利いてたら、そりゃ二流で終る。すぐに理解できるんじゃ、たいした仕事はできない。

  これまで私が立派な職人さんたちと話してみると、名人(別に名人じゃなくていいが)までなった人は、皆共通して、若い時は不器用そのもので、と語る人が多いもの。一生の仕事にしたいなら、今のままでいいから、親方、先輩の言うことをよく聞いて、ともかく誠実に、丁寧にひとつひとつの仕事をこなしていくことだ。まず今から三年、休日も自分で習ったことをやり続けなさい。不器用なら人の十倍やることだ。実はそれが本物の仕事を見つける唯一の方法なんだ。

Q
先日、父の葬儀があったのですが、婚約者が、突然棺の前で周囲も驚愕する程の号泣と鳴咽を漏らし、直後に涙でぐしやぐしやになった顔で私をじっと見つめてきました。その瞬間に私の気持ちはスッと冷めてしまったんです。その後、婚約も解消しました。周囲からは「あなたの判断は間違ってる」と言われますが、そうでしょうか?得体の知れない不気味な感じを受けてしまい、もうこれ以上つきあうことはできないと思ってしまったんで
す。(25歳・女・派遣社員)

A
君は大変いい感覚の持ち主で勘が大変よろしい。別れたのは大正解。私も、そういう奴を何人か見て来たが、禄な奴はいなかった。

 今回の兵庫県議の、あのバカモンと同じで、大人の男、いや十五歳過ぎた若者(男です)が、社会の中で生きて行く上で、してはならないことがいくつかあって、他人の前で感情をあらわにしてはならない。他人が呆れる行動をしてはならない。女、子供が見ていて何が起こったのかと驚くことはしてはならない。ましてや泣きわめくことは、男である限り、一生他人の前ではしてはならんのだよ。

 甘え以前に、生きることを砥めとるんだよ、平気で泣き叫ぶ輩は。お嬢さん、あんたはエライ。



 価値観は、人それぞれで、何が正しいと言うものではありません。

 本物が何かは、何を本物と考えるかという、人の価値観によります。

「本物が生き残ると古典になる」という人もいますが、それはよく分かりません。

 ただし、「本物」として、時代を超えて、生き残って欲しいなあと願います。本物を本物と見分ける人たちが、社会の一定数はいて欲しい、そう願います。

 5分で学んだことは、5分で忘れます。その人の背骨のようになるモノは、苦労して苦労して身につけないと、本物になりません。こつこつ、努力するしか、方法はないのです。

 練習して、上手くなるかどうかは分かりません。でも「練習は裏切らない」のです。

 王選手が、尊敬されるのはなぜか。それは、ON時代、人一倍練習したのが、王選手だったからです(長島選手のことは、現役時代を知らない世代なので、よくわかりません)。

 昭和49年だったか、前年三冠王を取ったのに、大変なスランプに陥りました。その時、王選手は、一本足打法をともに生み出した、荒川コーチのもとをたずねます。そして、2人で、練習します。

 やったことは、単なる「素振り」です。でも、毎日毎日、試合後(わざわざ、誰かの元を尋ねて、時間をかける・・・これがいかに大変なことか)、すさまじい量の素振りを行います。そして、勘を取り戻します。

 6月以降、めきめき成績を上げ、2年連続三冠王を勝ち取りました。

基礎がいかに大切か、そして、それを人一倍やることがどんなに大変か。でも王選手はそれを人一倍やったのです。

プロ野球選手がやる、キャンプ練習は、「基礎」ばかりです。楽天の佐藤コーチは、「高校野球で、もっと基礎を教えろよ」と言います。ダルビッシュなんかは、球がどっちの方向に飛んだら、どうカバー(動くか)するか、全然分からなかったそうです。そういうことこそ、「高校でしっかりやれよ」ということです。

いうなれば、柔道、剣道の「形(かた)」です。問答無用に、体に叩き込む動きのことです。

巨人→メジャー、国民栄誉賞を受賞した、松井選手も、とにかく、巨人時代の毎日、長島監督と、試合後、素振りをしました。何が選手生活で、一番の思い出かと言われ、「監督との素振りです」と答えました。

長島監督ですから、「ビュッ」とか「バッ」とか、素振りの音を聞いてしかアドバイスしてくれません。でも、何百回と素振りをし、いい素振りには、「今のだ」と、的確に見抜いてくれます。
松井選手は、それを、ただひたすら、体に叩き込ませたのです。

イチロー選手、子ども時代、毎日毎日、バッティング練習をしました。あるとき、自分がそれをさぼり、遅れていくと、それでもその間、父親が待っていました。その日以降、彼は一度もサボったことがありません。

一流の選手は、とにかく練習をします。逆に言えば、子供時代から、一つのことにこつこつと取り組める(これが一般の人には難しい)ことができるから、一流選手になるのかもしれません。

でも、練習は人を裏切らないのです。

基礎が何よりも大切です。家の基礎、柱が、とにかく大事で、これらが狂っていたら、後から直しようがありません。見えないところが大事なのです。

大学受験のセンター試験、各種資格試験も同じです。応用問題ではなく、基礎問題を落とさない、確実に点数を取ることが、秘訣です。

応用は、誰にとっても、難しく、たまに自分が知っている、やったことがあるのに出会うと、点数が取れるというような、運にも左右されるようなレベルのもので、全員が取れる問題ではありません。

しかし、基礎は、応用(問題)がどこを向いていようが、その下の土台に、必ず備わっているものです。基礎を外した応用はありません。

基礎がしっかりしていたら、ぶれないのです。家も、人もです。でも、これが難しい。身につけるのには、人一倍の練習が要求されるからです。

本物は、できれば、「古典」になって欲しいと願います。人生の指針、基礎として。

日経「春秋H26.7.27」

 映画版明日のジョーに出演し、ボクシングファンを通り越して、『拳闘症患者』を自認する香川照之さんが書いている。「今日という日を綺麗事ではない、周りからは狂っていると思われるような過ごし方をした者だけに『明日』はやってくる」。



中田ヤスタカ baby cruising Love

何だって いつも近道を探してきた 結局大切な宝物までなくした



5分で覚えたものは、5分で忘れます。

 本物を見抜く目、本物を見抜く言葉は、残って欲しいです。

価値観 2

<なぜ、このブログでは、意見はいらないというのか 2>

人格4

 さて、近代教育は、この精神活動をそれぞれ、細分化し、啓蒙・啓発します。

 知には、○○科という、社会科学・自然科学(国語科・数学科と言うでしょう)が相当し、感情には、芸術科が対応し、意志は道徳(高校では、これを倫理で代替することになっている)が対応します。

 学校は、極めて合理的に、システム化されたカリキュラムで運営されているのです。

 で、この「知」を担当する教科についてです。

人格5

 で、この「知」の分野には、哲学・諸科学(国語科・数学科・社会科・理科)があり、

 最新では、「情報化(コンピュータ社会に対応)時代への対応」も、カリキュラムに入っています。
「家庭科」も男女共学、食育も、必要とされています。保健体育も、座学教科の一部です。

この○○科で必要とされるのは、今後もどんどん増えていくことでしょう。

 余談ですが、食育の必要性が叫ばれ、給食を通じて、食の大切さを教える・・・ことになっていますが、今の60歳以下は、皆、給食がありました。

 でも、家庭の食生活は、「食の貧困化」「手抜き化」がいつも問題になっているでしょう。(これらを扱った、家庭の食卓の写真だけを取り扱った本もあります。栄養バランスも何もないのですが、写真を撮っている本人は、そのような意識はないそうです)

 「家庭の食生活が貧困だから、それを是正するためにも、給食を通じた、食育を!」

 食育に効果はないのです。要するに、給食が楽だから支持を受け、その理屈付けに「食育」なるものが、提唱されたにすぎないのです。既得権益を守るためです。

 閑話休題

さて、知には、2つの領域があります。①哲学と②諸科学です。

①は、べき論(価値論)です。②は、である論(事実論)です。存在(である)と当為(べき)です。ドイツ語で、ザインとゾルレンです。

安斎育郎『科学的な見方磨こう』 日経H26.7.5
◆思い込みと欲得が目を曇らせる

…超常現象や不合理な考え方を批判し、神や霊などの科学的な考察をしてきましたが、信じて生きている人を蔑むことはしなかった。科学には普遍性があって、どんな価値観のもとでも正しいものは正しいけど、人が何を大切に思うかという価値観は科学的な知見とは関係ないからね。信じることによって心の安らぎを得ているならそれでいい。存在しないものを信じることができるのはある意味、人間の特権と言えるでしょう。

人間は少ない情報をもとに推し量る能力があるから、だます側がいくつかのことばを提示すると勝手に想像を膨らませて思い込んでくれたりする。人間の優れた能力が逆に作用するんです。



 科学は、事実論ですから、事実は一つで、正誤判定可能です。

 しかし、哲学は、べき論ですから、意見・感想・価値判断で、千差万別、答えがないのです。

 何が好きか嫌いか、何を美しいと見るか、醜いと見るか、何を正しいと見るか、間違いと見るか・・・

 これは、千差万別で、解答がありません。どんなに考えても、唯一の正解はないのです。

 だから、このブログでは、そんなことを論じても、時間の無駄なので、扱わないのです。意見はいらないのです。

 そして、もう一つの理由が、べき論、価値観こそ、人格そのもので、尊重しなければならないからです。

(教育の目的)
第一条  教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。


 目的は、人格の完成です。人格とは、渾然一体で、本来分けることができないのですが、便宜上分けました。

 しかし、人格は、本来、わけられないものです。その人の真善美が、渾然一体となっている・・これが人格です。

 その人格の完成を目指すのが教育活動ですから、一人一人の、違う考え方、ものの見方、真善美を尊重するのが、大前提とされています。

カント
汝および、他人の人格を常に同時に目的として取り扱い、決して単に手段として持ちうることなかれ


 カントの人格擁護律です。

 人格は、目的であり、手段ではないのです。自分のも、他人のもです。

 もちろん、実際には、人を手段として扱います。部下を使うのも、そうです。しかし、本来は、ヒトは、目的であり、手段ではないとするのが、近代教育を支える哲学です。

 モノは、あくまでも「手段」にしかなりません。人間の何かの目的を満たすための手段です。ここが、モノと、ヒトとを分ける部分です。

 人格は、ものすごく大切な、目的そのものと考えているのが、教育活動です。だから、自分の人格を大事にしている人は、他人の人格も大事にします。そして、人生は、この人格の発露です。何が正しく、何が善いことで、何が美しいか・・・これが、その人そのもの(哲学)、生き方そのものなのです。

 このような、いざというとき、その人の、全人格が問われます。とっさのときに、全人格が発露するのです。

 ものすごく難しく、ものすごく崇高で、人類の永遠の主題(文学でも芸術でも、この葛藤をモチーフにする)です。

 だから、全人格の発露である、次のような事例を前にすると、「人格」とは何か、「人間とは何か」「どこに真善美があるのか」について、深く、深く、考えるのです。そして、簡単ではない(とても難しい)ということに、気づくのです。重たいのです。簡単に扱われては、たまらないのです。

曽野綾子 「今も続く人間の極限」 新潮45 2014.6月号

 べルリンの陥落に関しては、・・その中でもアントニー・ビーヴァーの『ベルリン陥落 1945』という本にたった四行で記録されているディーテル・サールという少年の挿話は忘れられない。
 べルリンに入って来たソ連兵にとって、ドイツの女性たちは、格好な性の標的であった。「慰安婦」どころの問題ではない。ベルリンはまさに、性の捌け口の坩堝であった
ように見える。このようなことは、占領後の日本にはなかった現象である。私たちは改めてアメリカ人の占領政策を評価すべきだろう。

 首都陥落時、ベルリンに住む人たちは、終戦当時の日本人と同様、或いはさらに深刻に食料難に苦しめられていた。同じ性的な行為でも、子供に食べさせる食料を手に入れるための交換条件としてソ連兵に近づいた女性もいれば、反対にあどけなさを残してドイツ人の少女とのロマンチックな出会いを求めた純心なソ連兵もいたという。集団でレイプされるのを恐れて、進んで特定のソ連軍高級将校の囲い者になった女性はかなりいたように見受けられる。それらの話はしかし、まだ当事者が生存している現代では、表立って語ることはタブーである。

 当時ディーテル・サールはまだ十三歳であった。末期的な敗戦の状況にあったドイツは、老人やハイティーンまで動員していたから、彼の家庭も父も祖父もいない母子家庭であった。彼の眼の前でソ連兵が母を犯した時、彼は抵抗を試みたが、それは全く何の役にも立たなかった。彼がその場でできた唯一のことは、屈辱の報復として、自分を撃って死ぬことだけだった。

 ここには十三歳の少年ながら、相手のソ連兵を撃てなかったか撃たなかった、弱く卑怯な自分への、採るべきせめてもの答えを、数分のうちに出した気迫を感じる。残された母のその後については何も書かれていないが、母の苦しみも一生涯ついて廻ったことだろう。
 
 百日間に八十万人とも百万人とも言われる人加虐殺されたいわゆる「ルワンダの虐殺」の正確な数字は誰にもわからないだろう。その背景を語れば、それだけで一冊の本ができる。今ここでは概要だけを語るほかはない。

 殺された側はツチと呼ばれる部族で、人口の約一割とも言われていた。殺しだのは人口の約九割を占めたフツ族である。もともとの出自としては、フツが農民で、ツチが牧畜民だったが、現在ではそれほどはっきりした分業ではないらしい。つまり町に美容院があったら、その経営者はツチ族である場合もフツ族である場合もある、ということだ。
 
 私はアフリカの田舎を歩くようになってから、農民と放牧民との、積年の対立の感情を実感できるようになった。日本では農地の隣に牧場があっても、それははっきりと境界線で仕切られているから、何の問題も起こさないのである。しかしアフリカにはこの境界を仕切る材料も人手も金もないから、両者は常に利害の対立関係にある。

 農民がトウジンビエやトウモロコシを栽培していると、そこに、突然牛の群れがやって来て、畑を食い荒らす。放牧民の所有している牛である。
 日本のように家畜を牧舎や鶏舎に入れて飼うこと自体が、先進国の証だということさえ、私は自覚していなかった。人間の自然の営みの中では、基本はすべて放牧なのである。

 ・・・放牧は、農民側からみればたまらない暴挙であろう。牛は雑草も植えたキビも判別できないから、どんな土地へも踏み込んで作物を食べてしまう。作物を食われた農民の側が、怒り心頭に発するのも当然だ。

 しかも、社会的地位や収入に関しては、常にツチ族の方が上だとなっていたというから、フツ族のツチ族に対する恨みは積年のものとなっていたと思われる。

・・・フツ族は、不安の中で教会に集まっていたツチ族をあらゆる形で虐殺した。何の武器も持たず逃げ道もふさがれた人々を、小銃や機関銃で掃討した。あるいは手榴弾を投げ、石油を撒いて中にいる人々を生きながら焼き殺した。

 破壊されて廃墟となった教会跡は一種の虐殺記念館になっていたが、中には今でも、当時そこへ逃げ込んで殺された人たちが持ち込んだ布団やポリタンクや子供の玩具などが、祭壇の上の圈牒と共にそのままになっていた。

 その旅の間中、「私も、いつでもこうなれるのだな」と私は考え続けていたのである。その想念の中の私は、殺される側と殺す側と、そのどちら側にも立っていた。しかしこれほどの実感をもって、その二つの立場をあくことかく想定したことはそれまでになかった。

・・・ほとんどはカトリック教国だったから、私は信仰と現世での行為との間で、二者択一の選択を迫られる場合があることをますます濃密に見せつけられたのである。

 たとえば、一人の修道院長は、自分の修道院にいるツチ族のシスターだけでなくその親戚の人たちまでを当然のように匿っていたのだが、そこへ民兵がやって来て、ツチ族のシスターとその縁故者を今すぐ出さなかったら、この修道院全体に火をつけるか皆殺しにする、と脅すこともあった。或いは、修道院が保有しているガソリンを今すぐ供出しろと強制した。そのガソリンは教会などに集まっている人たちを焼き殺すために使われるのだということは、誰もがわかっていたのである。

 いやその前に、もっと簡単で時間の差し迫った選択を迫られるケースはいくらでもあった。象徴的に言えば修道院長は、追われている難民が修道院をめがけて走ってくる姿が見える前で、修道院の大戸を開けて彼らを迎え入れるか、それとも民兵の銃口の照準の中にいる彼らの前で大戸を閉めて、彼らの受け入れを拒否することで「体制」に従順であることを示すか、問われたのである。すべての修道院がそうなのではないが、昔から外敵を防ぐために、修道院というものにさえ一種の城砦化した構造の意識があることは、日本人以外の多くの人たちにとっては常識なのである。

 もし私が修道院長だったら、どう応対するだろうか、と私は考え続けた。個人としての立場と、責任者としての立場が違う場合を恐れ続けて、私は社会的地位というものに昔から惹かれたことはなかった。むしろはっきりと忌避すべきものだ、と感じて来た。国民の一人なら、よくも悪くも自分一人の命で片がつく。卑怯者になる方法も簡単だ。

 しかし他人の運命を担う者は、道徳的・政治的全責任を一手に引き受けねばならない。

 フツ族の祖母の娘が、ツチ族の男を好きになって結婚していた。だから孫はフツとツチと双方の血を引いている。しかし祖母にとっては、そんなことはどうでもいいことだ。ただ「大切な孫」なのである。

 しかし民兵たちは、そういう曖昧さを許さなかった。祖母に、ツチ族の血の入った孫をお前の手で殺せば、お前の一族が親ツチだというレッテルを貼らないでおいてやろう、と言ったのである。

 かつて内乱の収まった後の二〇〇二年にシエラレオーネに入った時、私は手足を切られた子供たちをたくさん見た。内乱の時、反政府勢力が子供たちを狩りだし、男の子は幼い民兵として訓練し、女の子には売春をさせた。さらに無意味に子供たちの手足を切り落とした。「アンピュテーション(手足の切断)」という、外科医ででもなければ必要のない英語を、私が初めて覚えたのも、この土地だった。
 
 内乱が収まった後再び現地に復帰していたシスター・根岸美智子(故人)は、「曽野さん、手を切られるのと、脚を切られるのと、どっちがいいと思います?」と私に質問した。私は「もちろん脚でしょう」と即答したが、それは私が二度も足を骨折した経験があったからである。私は手に力があったので、その腕力を使って入院中も何とか人の世話にならずに生活した覚えがあったのである。脚がなくても、いつの日か義足をもらえれば、その人はほとんど人並に行動できる。しかし手がないと、その人は生涯、自分で大便の始末ができない。

 私が今でもアフリカの内乱のニュースを他人ごととは思えないで読むのは、そこで私たちが人間を失うまいとすれば、どれだけの犠牲を払うことを覚悟すべきかを突きつけられるからである。私は未だに自分が果たして正しい答えを出せるかどうか疑問のままだ。たとえ出せたとしても、自分がそれに耐えられるかどうかも自信がないままだ。しかし私たちの知らないところで、他者の命を救って殺された無名の英雄がいたことは間違いない。人のために敢然と殺される決意ができているかどうか、答えを出せる人は少ないだろう。



 こんな難しいことは、日本にはない?冗談を。人間の全人格を問われる機会はそこらへんにごろごろあります。

死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日
(2012/11/24)
門田 隆将

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 福島の原発事故。吉田所長は、決死隊を組織することを決断します。あなたが、その場所にいたら、どうしますか?指揮官だったら、あるいは、それをするかどうかの判断を問われる立場だったら・・・

 建屋に残った人(女性も含めて)がどう行動したか、詳細に描かれています。吉田所長が、大勢の前で、なぜズボンを下げ、下着を直したか・・・

読売26.5.11

山崎正和「現代の正義 確かめ合う」

…日本では妊娠中絶は事実上、産む女性の自由として認められているが…これは生まれてくる胎児の人権と矛盾している。現実に外国にはこの理由から中絶反対の運動があり、理論的にはこれを保守的として切り捨てるのは難しいのである。

 東日本大震災…孤立した病院で動けない患者を守った看護師たちは、同じく被災した家族と職場のはざまで引き裂かれることになった。家族を捨てて病院に残った看護師と、わが子のために職場を離れた看護師は、いずれも長く後ろめたさに苛(さいな)まれた…。



 あなたが、その当事者だったら、どうしますか?どうしたと思いますか?

 人格とは、それを突きつける、とても重たい課題であり、そんなに簡単に答えが出せる話ではないし、一生かかっても、解決しないかもしれない問題に、自分の答えを出すとういう、厳しい厳しい課題です。

 「ええ?自分があなたに聞いている、消費税をどうするか、説明しろなんて言う意見や、ウイキペディアをあなたが補正したらいいのでは?、民主党が白川総裁を選ぶ権限を持っていたのかどうか?という意見や質問なんて、そんな重たいものではないでしょう。考えすぎ。」

 そう、あなたの意見は、「軽い(思いつきで書いたもの)」「くだらない話」なのです。くだらない話だから、このブログに、そんな意見書き込むなと言うことです。あなたの、くだらない話(意見)に、時間を使わせないでください。もっと大切な、考えなければならない、でも答えが見つからないことの方が、重要なので。24時間という、人生という、限られた時間は、そちらに使いたいので、あしからず。

 人格とは何か、常に考えれば、人の人生、生き方を軽々しく扱うことは、できなくなります。その人の発言、立ち振る舞い、それが、その人の全人格を示すのです。

ハイエク『隷属への道』春秋社 1992
p74
 人間の想像力には限界があり、自身の価値尺度に収めうるのは社会の多様なニーズ全体の一部分に過ぎないということである。・・・価値尺度は各個人の心の中にしか存在しないから、常に部分的なものであり、それぞれの尺度は、決して同じではありえず、しばしば衝突しあうものとなるということである。

 だからこそ個人主義者は、ある範囲内で、他者のではなく自分自身の価値観や好みに従うべきことが許されるべきであり、その範囲内では、自身の目的体系が至高であって、いかなる他者の指図も対象とされるべきでない、と結論するのである。

個人主義者の立場の本質を形成しているものは、このように各個人こそが自分の目的に対する究極的審判者であるとする認識であり、各個人はできるかぎり自身の考えによって自身の行動を左右していくべきだという信念である。



自分自身は、目的そのものであり、自分自身が、自分自身のマスターです。この1人1人がその価値判断に従って、形成するのが「市場」であり、その対極が「全体主義」「共産主義」です。

自由・民主主義・市場は、同根、「個人の尊重」原理から、導かれるのです。

その人の発言、言葉が何を示すか。

日経H26.8.30

『言葉を先人から学び直す』古典を読む 竹西寛子さんに聞く

広島に生まれ16歳で被爆した。
「死体が見つからないので死んだことにするという。あることとないことの違いは何なのか。目に見えていたものが一瞬でなくなった。でも私の記憶の中にはあるんです。現実に手で触れられるもの、目に見えるもの、耳に聞こえるものだけがあるのか。違う。もがきました」

「ペンを持ったら一行も書けない。いくら探しても的を射る言葉が見つからない。日本人だから日本語は使えるだろうという思い上がりが打ち砕かれました。私がダメなのか、言葉とはそういうものなのか。先輩の女性たちはどんな文章を書いてきたのか一から学び直そうと思ったんです。」

「高校の先生に『どうしたら今の生徒に古典を教えられるか』と聞かれ『ご自身がいいと思われたものを、なぜいいと思われたのか素直に描写してください』と答えます。一首、一句でもいいから、自分がほんとうにいいと思ったら離さない。他人が評価する作品のよしあしとは別です」

「人の生き方は言葉遣いに表れる。人間はその時々に使う言葉以上にも以下にも生きていない。言い訳のできない心そのものの表れとしての言葉。自分が言葉をいかにあいまいにしか考えてこなかったか反省しました」

「人に不愉快な思いを強いないために自分の思いをできるだけ分かりやすく伝え、相手の言うことを曲がって聞かないことが大切です。文章は読むのも書くのも全身運動。自分の体を通った言葉でなければ相手に届きません。大事なのは主語と述語、余計な形容詞や修飾語は不要。いい加減な言葉は務めて使うまいと努力しています」

「いい加減でない言葉を使おうと思ったら、ものを見るときまずいい加減でない見方を求められます」



 すみませんが、「くだらない意見」を読むひまは、私にはありません。

その3に続く・・
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