奥村洋彦 「経済政策『不確実』前提に」 日経経済教室 H25.9.16
…英国の中央銀行・イングランド銀行(BOE)のキング総裁も、自らを省みて、経済のとらえ方に誤りがあったことを認めている。
「今になってみればわかるが、10年前に認識が足らなかった点は『将来のことはわからない』というケインズの思考の核となる経済のとらえ方であった」(英フィナンシャル・タイムズ13年6月15・16日号)
今回の世界的金融危機の下…欧米の識者が指摘する従来の標準的経済学モデルの主な欠陥は、以下の諸点である。
第一に…
①価格が瞬時に調整され、需給が一致する
②資産価格(筆者注:不動産など)形成が本源的価値に基づいて合理的になされる
③市場には自律的な均衡復元力がある
とする不自然な前提…。
第二に、
…信用リスク、倒産、信用仲介といった金融面の重要な視点が組み込まれず…
第三に
…均衡から不均衡に移行するという変化を伴う時間(リアルタイム)の流れの中での経済の移行プロセスが考慮されていない。
…「将来のことは不確実であり、客観確率では予測できない(オーストリア学派はイグノランス=Ignoranceと名付ける)…こうした場合には、「過去のデータに基づく合理的将来予想の下で最適行動を採る」といった標準的経済学の単純な考え方を適用できなくなる。
…いかに精緻な計量経済学モデルに依ったとしても、分析に使うデータはあくまで「過去」の場と「過去」の経済主体によって生み出されたものである。
…ケインズが極めて重視したように「前提」が現実と遊離していないか点検し、オーストリア学派が主張したように「モデルが経済の現場から受け入れられない場合にはモデルのおかしさをまず疑う」という姿勢が不可欠である。
…人々のマインドと行動は異質で多様であり、時間が経過するプロセスの中で、移ろい、他の人や社会の動きによって左右されやすく、常に変化する。したがって、集計値だけによる分析では現実に十分迫れず、異質の経済主体ごとへの政策の影響を分析してはじめて実践に耐えるモデルとなるのである。(図参照)

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筆者注、こんなものができると思いますか?????
なぜ、従来モデルに、こんなものを取り入れれば「実践に耐えるモデル」になるなど、夢物語を語るのでしょうか、経済学者は?
小林慶一郎「『期待』どこまで解明?」日経経済教室 H25.10.21
…合理的期待の本質は経済における期待が「自己言及性」を持つという点…、自己言及性とは、期待が巡り巡って自分自身(期待)を決める性質のことである。 では、解説します。
ルーカス批判です。
「インフレは家計に賃金が増えて豊かになったと錯覚を起こさせ、消費を増やす」
について、
政府が景気を良くしようとインフレを起こしても、「国民はその意図を知っているので、インフレに備えて消費を減らす」→その結果、「インフレでも消費は増えない」とするものです。
「期待(筆者注:誤訳で、本当は「予想」のこと)に基づき行動すると、結果的に「期待(予測)」そのものも、変わる」これが、「自己言及性」です。
だから、経済法則なんて、いつまでたっても、「本当は決まらない」のです。
ところが、これを「動かない」と仮定させます。「家計や企業は、完全情報を持ち、合理的に行動する」とするのです。

経済学は、これを
「合理的期待(予想)」と名付け、「仮定」させて、自分たちの理論を展開(これなら簡単です)、正当化させてきたのです。
こんなもの、そもそも成り立ちません。
で、大学院レベル(例:トーマス・サージェント『再帰的マクロ経済理論』)では、「自己言及性」に「再帰」しようと試みています。ですが、そこでもまだ、非現実的な仮定が、使われ続けています。
過去10年、中央銀行がモデルとして使ってきた、動学的確率的一般均衡:DSGEも同じです。「家計や企業は合理的・・・しかもすべての家計や企業」です。そうすると、景気変動も「合理的」となり、不況さえ、家計や企業にとって「最適」という結論になります。
だから、リーマン・ショックを前に、このモデルでは、歯が立たないのです。DSGEモデルでは、不況克服ではなく、「価格の自由自在な伸縮による効率性」しか、追及できないのです。
これを克服する動きとして、米プリンストン大学の清滝宏教授と英ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスのジョン・ムーア教授の12年の論文のように合理的期待の仮定を維持したまま、異質な経済主体の相互作用を分析…。
…シカゴ大のラース・ハンセン教授…「経済の真の構造が分からない」という条件下で、経済法則を推測する…。
…どれも合理的期待仮説の本質(筆者注:動かないと仮定)を覆すものではない。…マクロ経済学に決定打はまだない。「まだない」のではなく、そんなもの、「あり得ない=存在できず=不可能」なのです。
70億人の行動を「予想」することは、永遠に不可能ですし、1人/70億人(ミクロ)をいくら研究しても、70億人からなるマクロ経済は、分析できません。
吉川洋『過去40年間のマクロ経済学は間違った路線だった』週刊エコノミスト13.9.10号
…ルーカス理論の一番の問題は、特定の資産市場には有効かもしれない合理的期待の概念を、労働市場や賃金といったマクロ経済に無反省に適用したことだ。マクロ経済では、家計や企業などミクロの経済主体はそれぞれ異なる世界で行動している。一つの「マクロ経済」を共有していない。
…代表的な企業や家計の行動をそう相似拡大し…日本国内の「ザ・企業」と「ザ・家計」という二つの経済主体を相手に…だがそもそもこんなモデルを誰も正しいとは思わないだろう。

…マクロ経済を代表的な経済主体の動きでとらえるモデルでは、経済主体が合理的である限り…適当な変数を動かせば、期待をどのようにでも動かせる。しかし、そんなモデルに意味があるのか。
…自然科学の分野…多数のミクロが集まったマクロ系の分析…では個々のミクロの動きを追っても意味がないとしている。ミクロの動きはばらばらでわからないからだ。
…一つの部屋。この部屋のマクロ…温度を調べるために、一つの代表的な酸素を選び出し、それを詳しく調べても何の意味もない。
…マクロは、「ミクロの動きを抑えることが基本」と、代表的企業、代表的家計を想定して、マクロはその相似拡大としてきた。…酸素の動きを通して部屋の状態(マクロ)を理解しようとしているのと同じだ。こうした方法論は間違っている。ミクロとマクロは別、昔の二刀流(筆者注:新古典派のミクロ経済学とケインズ経済学の共存)が正しい…。ロバート・J・シラー

「数字より結果重視?経済学は『科学』なのか」週刊東洋経済H25.11.23 p116
…経済学の問題の一つは、どうしても基本原理の発見よりも政策に焦点を合わせるということだ。…経済政策に焦点を合わせると、科学でないことが多くかかわってくることだ。政治が関与し始め、政治的なジェスチャーが人々の注目という見返りを受ける。 「新自由主義」「市場原理主義」など、経済学にはない概念を作り出し、「小泉改革」で格差が拡大したなど、本当に科学(事実)とちがう物語が作られます。そのエセ事実が拡散します。
…「科学」とつけるのは、評判の悪い類縁と区別をつけるためだ。
…「政治科学(政治学)」という用語…真実の追求よりも影響力の行使や票の確保を目当てにした…小冊子から一線を画した。
…「天文科学」…占星術や星座に関する古代神話の研究と区別しようとしたものだ。
…「天文科学」…20世紀…ほぼ消滅した。 それらの用語も、徐々に消えてなくなります。
…「化学科学」という用語…19世紀…錬金術や怪しい特効薬作りと一線を画そうとしていた。…真の科学と疑似科学を区別する…この用語を使う必要は1901年にノーベル賞が創設された頃までにほぼなくなっていた。
…「天文科学」…20世紀…ほぼ消滅した。…占星術…星が私たちの運命を決めるという考え方は、知的にはまったく通用しなくなった。…「天文科学」という用語は必要なくなった。 さて、経済学です。
…「経済科学」を批判する人々は…難解な数字を見せびらかすだけの「疑似科学」の発展だ、と指摘している。…「統制された実験などないので、誰にも暴けない」…。シラー教授は言います。
…妥当性が明らかになることがないモデルに対して経済学のほうが物理科学よりもいくぶん脆弱だ。 え?「いくぶん」ですか?
…というのは、経済学モデルは人間を対象としており、近似の必要性が物理科学の場合よりもずっと高い。 近似(似ている)が必要だ。対象が、「何をしでかすかわからない人間」だからです。CO2とか、真空なら、理論通りですが、何しろ相手が「気まぐれ」な人間です。CO2を対象とした理論・実験のように「静止」してくれません。
…人間は気持ちが変わりやすく、まったく違った振る舞いをすることがある。神経症やアイデンティティの問題を持つ人もおり…。 このような、「ヒト」というものを対象にする限り、「普遍妥当性」を求める科学など、土台、成立しません。
…複雑な現象が経済成果を理解することと関係があると行動経済学の分野で分かりつつある。
…単純化できない経済の人間的要素に合ったモデル(筆者補足:DSGEモデルなど)を作るために必要な調整と、数学的洞察を結合させるのは課題のままだ。 課題のままですか・・・そんなもの、永遠に課題のままで、整合性は取れないのです。普遍的妥当性など、経済学には無理なのです。
…行動経済学の進歩は…現在はやりの数学的な経済モデル(筆者補足DSGEモデル)の一部と矛盾する可能性はある。そして経済学はそれ自体の方法論上の問題を抱えている…。 矛盾する可能性・・・矛盾ばかりです。なぜかと言うと、前提(ここが経済学の致命傷)が違うので、絶対に交わることができないのです。
ミクロ経済学では、ヒトは合理的だというのが「前提」です。
清水書院 新政治・経済 p93 平成21年 三版

おなじみの、中学校の教科書にさえ掲載されている、経済学の基礎の基礎、「供給・需要」曲線が成立するには、箱庭のような条件が必要です。
(1)財・サービスの内容について完全に知っている、無数の消費者
(2)財・サービスの内容について完全に知っている、無数の生産者
(3)完全競争市場であること(寡占・独占やカルテルを結ばない)
(4)消費者は、効用を最大限にするように行動する
(5)生産者は利益を最大限にするように行動する
ミクロ経済学を基礎にしたマクロ経済学は、この前提を継承します。
池田和人「連続講義・デフレと経済政策―アベノミクスの経済分析」
・・・1982年、キッドランドとプレスコットが・・・これまで述べてきたような要素を持ったマクロ経済学モデル・・・を示しました。・・・動学的で確率論なモデルです。・・・各時点ですべての市場で需要と供給が一致(均衡)が達成されていると想定され・・・動学的(dynamic)で確率論的(stochastic)な一般均衡(general equilibrium)モデル・・・DSGEと呼ばれるモデル群の先駆けです。 ところが、行動経済学では、ヒトは不合理ではないか?を前提とします。
山岡 道男, 浅野 忠克「ガブッ!とわかる世界一やさしい行動経済学の教室」
P018
人間を不合理のかたまり(限定合理的)としてとらえた上で、現実の経済活動においてどのようにふるまうかを観察、分析する学問が行動経済学です。行動経済学では、「人の嗜好や好みは状況や雰囲気に応じて、その都度変化する」と考えます。 合理的ではない例です。
「選択肢が多いほど効用を最大化できる」とするのが伝統的経済学です。ですが実際には、「選択肢が多すぎると、混乱する」のです。選択麻痺という状態です。
ジャムの試食が、6種類の場合と、24種類の場合の実験です。当然後者の方が「選択肢が多い」のですが、売れたのは前者の6種類の方でした。人間は選択肢が多すぎるとかえって選択そのものをあきらめてしまうのです。これは「ジャムの法則」といいます。
「松」「竹」「梅」のすしセットがあります。
加えて「ホタテ盛り」「日替わり限定セット」「マグロ尽くし」「海鮮丼」「ちらし・・」と増えれば増えるほど、「分からなく」なってきます。
「無数が参加する市場」など、そもそも幻想なのです。
…経済学が発展するにつれて方法論のレパートリーと証拠の情報源が拡大し、経済学という科学はさらに強大となり、いかさま師は暴かれることになるだろう。 そうですね。「科学」は細分化しますから、「普遍妥当性」ではなく、局所的に妥当する「科学的経済学」は、強大(ますますさかん)になるでしょうね。「この理論が完璧で、普遍妥当性がある=いつでもどこでも成り立つ」などという「いかさま経済学師」は排除されるでしょう。
でも、そこまでです。「科学」というものの限界です。
経済学は、最低でも、2つ以上の視点が必要です。
「需要」と「供給」
「生産者」と「消費者」
「価格」と「量」
「短期」と「長期」
「経常黒字」と「資本赤字」
「金融資産」と「金融負債」
国債は「国民資産」と「政府の負債」
「実物経済」と「貨幣経済」
そして、永遠の課題である、
「経済的自由」と「経済的平等」・・・・ この「2つ以上の視点」という原理原則を外すと、トンでも論になります。
ありましたよね、「不況になると、生産者は価格を下げて対応する、だからデフレになる」・・・。生産調整という「量」の視点が欠けています。
デフレは「供給に需要が追いつかないデフレギャップに原因がある(実物経済)」、「日銀による金融政策に原因がある(貨幣経済)」、どちらかに偏っているのは、「いかさま経済学師」です。
こんなもの、100年も前に、ワルラスの「一般均衡」理論で、論証済みです。どちらか一方なんて、あり得ません。
「金融緩和をすると、国際暴落で、ハイパーインフレになる」→アホです。「資産」面が見えていません。
「貿易赤字は官民挙げて取り組まなければいけない課題だ」→勘弁してください。
「消費税の軽減税率は、弱者救済のために必要だ、欧州では常識だ」→詭弁です。
これからも、「一面的」な見方で、国民を惑わす、「いかさま経済学師」はなくなりそうもありません。「科学的経済学者」さん、よろしくお願いします。
ちなみに、「自由」と「平等」は、政治の世界では、次のように論じられます。ただし、判断基準にはなりますが、絶対基準ではありません。
ジョン・ロールズの2つの正義原理
第1原理
政治的自由、言論の自由、思想的自由などの基本的な自由の権利は、すべての人へ平等に分配されること
第2原理
以下の2つの条件を満たす不平等は正義にかなう。公正な機会均等のもとで、正当な競争により生じた不平等であること、そのうえで、社会で最も恵まれない人々にとって最大限の利益になる場合であること。 負けた人の再チャレンジが常に可能なことですね。
一方、批判もあります。
アマルティア・セン
第1に、単なる資源配分の平等性だけでなく、人々が多様な資源を活用して生活の質を高め、一定程度の望ましい生を平等に確保できること、言いかえれば、人間が現実に受ける権利の平等を保障するものでなければならない。
第2に、人間が自らの生の質を高め、福利を実現するための能力、すなわち潜在能力の平等化を目指すべき もう、「べき論(価値判断=正しいか正しくないか、善か悪か、美か醜か、美味か不味いか)」の世界に入り込んでいるので、永遠に答は出ません。
あれ、そういえば、
…経済学の問題の一つは、どうしても基本原理の発見よりも政策に焦点を合わせるということだ。…経済政策に焦点を合わせると、科学でないことが多くかかわってくることだ。政治が関与し始め、政治的なジェスチャーが人々の注目という見返りを受ける。ですね。最初から、「べき論」の世界にさらされるという「大前提」があるので、「経済学」って、可哀想です。
Y=C+G+I+EX-IM
Gなんて、「べき論」どっぷりの世界です。農業を守るべきか、漁業を守るべきか、図書館でただの本を貸すべきか・・・G予算など、「価値観調整」の結果そのものです。
供給するのは、「財・サービス」ですが、「財」を英語で言うと「goods=善きもの」です。もう、最初から「価値観」の世界にどっぷりと浸っています。ちなみに、「good」は、当然ですが、「The God」から来ています。
自由を追求すると、「古典派経済学」、平等を追求すると、「共産主義」です。折衷案で、「修正資本主義」があります。
生産者であり、消費者である・・・会社を一歩出ると、コンビニで買い物する消費者。ウーン、見事な「2元統一」です。
哲学の世界では、「生産者(正)-消費者(反)→実在(合)」・・・マルクスですね。あるいは、「絶対矛盾の自己統一(西田幾多郎)」ですね。
人間なんて、そもそも、矛盾のかたまりです。でも平然と「存在」し続けています。不思議です。
人間とは何か・・・古代からの永遠の課題です。これを解明しようとして、科学(細分化)が発展してきました。
と、結論は、
松尾 匡 『対話でわかる 痛快明解 経済学史』 日経BP社
と、正反対になってしまいました(笑)。
松尾先生は、メタ理論(一つの理論で、全てを説明する)はあるといいます。相対的経済学の時代は終わるといいます。
ですが・・・現実は・・・
経常赤字で財政黒字国(チリ)、経常赤字で財政赤字国(米英)、経常黒字で財政赤字国(日中)、経常黒字で財政黒字国(UAE)。
基軸通貨国(米)と、資本非自由化国(中)・・・
マリファナ製造販売を合法化したウクライナと、大麻禁止の日本、吸うのは自由なオランダ・・・
豚肉を禁止されるイスラム教徒、牛を禁忌し、高カーストほど菜食主義なインド・・・
飲酒が原則禁止されるイスラム教国、なければ実験用アルコールにまで手を出したロシア。
売春が合法化される欧米、姦淫(特に女性)が石打の刑で殺害される中東イスラム、女性性器切除が行われるアフリカ。
24時間休まないコンビニ国日本、日曜日に商店は全休するキリスト教国ドイツ。
医者もパイロットも薄給公務員だが、医療も大学も介護も無料のキューバと、体制維持のため、見せしめ処刑する北朝鮮。
銃の所持(防衛)を、自由権とし、その自由権を守るために憲法をつくったアメリカ、刀狩以来、庶民が武器を持たない日本。
利子を教義で禁じる(原理に忠実であればあるほど)イスラム教徒は、すでにキリスト教徒よりも多くなっています。増える一方です。世界の1/3以上が、教義上「利子」を禁止している世界で、「利子は結果(新古典派)」だの、「利子は手段(ケインジアン)」だの、文字通り、「空理空論」です。
これを、経済学で、分析する? それも、一つの経済理論で説明する?
これらのばらばらな現実を、一つの理論で、説明できる・・・やはり、無理です(笑)。
http://yuuki-ran.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-23c2.html
勇気凛々 ゆうき蘭
2013年11月27日 (水)
菅原晃著・高校生から分かるマクロ・ミクロ経済学②
●このままでは韓国、中国に負けるという嘘
近年、日本の家電メーカーが韓国に負けているといった話をよく聞きます。しかし、これは違うといいます。確かに韓国の伸び率がすさまじいので目が眩みがちですが、液晶の市場規模自体が激増したので日本メーカーの売り上げ台数は増加しています。パイが拡大している限りゼロサムゲームではない。
何となく経済=ゼロサムゲームという呪縛がありますが、実は違う。経済とはパイの奪い合いで、どちらが勝つとどちらかが負ける。よって日本はLGやサムスンに負けるという図式がありますが、世界の経済は拡大していてパイがどんどん増えている訳ですね。これもミクロとマクロの混同からくる勘違いです。
「産業の空洞化」という懸念があります。日本企業が賃金が安い海外に生産拠点を移すので国内の生産雇用が衰退してしまうではないかという事ですが、実際には大企業だけでなく中小企業においても海外に進出した企業ほど国内従業員の数を増やしています。
更にいうと、企業自体がグローバル化、多国籍化しているから一概に日本企業とか韓国企業とかアメリカ企業と分けられない時代になってきています。日産は名前だけ見れば純国産会社というイメージですが、株主でいうとフランスの企業です。しかしそこで働いている人は日本人が大多数です。資生堂が化粧品を国内で売れば売るほどベトナムの輸出が増え日本の輸入が増える事になり、ユニクロは日本企業ですが、約6000億円の国内売上のほぼすべて、ニトリは売上高3100億円の8割が輸入品を売っています。
theme : マクロ経済学 ミクロ経済学
genre : 政治・経済